社会派ドラマ円環

 月日のたつのは早いもので、大ブームになった「半沢直樹」が終わって二ヶ月がたった。この番組が最終回で今世紀最高の視聴率をはじき出した一週間後、社会派小説の巨匠である山崎豊子が亡くなった。なにやらオカルトめいた暗合を感じさせる出来事である。山崎豊子が社会派を代表する存在だっただけに、否が応にも「世代交代」という言葉が思い浮かぶ。
 ご多分にもれず俺も「半沢直樹」にハマったくちだ。あれには何だか妙な中毒性があるんだよなあ。大ヒットの要因は各界の識者がいろいろな分析をしている。よく言われるのが「このドラマは銀行という題材を使った時代劇だ」という意見だ。そういえば演出も歌舞伎のような見得を多用していたし、現役の歌舞伎俳優を二人も投入して大芝居をさせていたし、ナレーションもNHKの歌舞伎中継みたいだった。
 一話ごとの構成は「水戸黄門」を踏襲していて、毎回、悪を懲らしめてエンドとなる。個人的にこのドラマのいちばん画期的な点はここだと思う。本来は長編小説であるはずの原作を五分割して、それぞれを「水戸黄門」のフォーマットに落とし込む。これは思いつきそうで思いつかない発想だ。またそういう事が可能な原作であったのが功を奏したのだろう。小ボス、中ボス、大ボスと順番に敵を倒していくのもゲーム的で楽しい。しかし第二部の東京編は第一部ほどきれいに落とし込めていなかった感じである。俺は原作を読んでいないけど、おそらく第二部の原作自体、第一部とはがらりとパターンを変えた作品だったのだろう。シリーズ小説としては当然の配慮だ。それを同じパターンになるように構成するわけだから、完成度において第一部の大阪編に一歩およばなかったのもやむなしと思われる。
 前回の記事で俺は、山崎豊子を社会派の皮をかぶったメロドラマ作家であると結論付けた。深刻な題材を扱っているにもかかわらず、彼女の小説が幅広い人気を得た理由は本質的にメロドラマだからである。「大地の子」は国をまたいだ「瞼の母」だし、「運命の人」は国家機密が絡んだ不倫ものだ。「華麗なる一族」にいたっては出生の秘密、骨肉の争い、異常な夫婦生活、親の決めた結婚相手といったメロドラマの常套手段がてんこ盛りである。そういう意味では「半沢直樹」も彼女のやり方を踏襲しているといえる。このドラマの本質は痛快娯楽時代劇であり、銀行という題材は単なる舞台装置に過ぎない。「半沢直樹」を山崎豊子の原作と勘違いする人が続出したのも、そういう「皮をかぶった感じ」を視聴者が無意識に察知した結果かもしれない。
 監督の福澤克雄は、かつてキムタク主演の「華麗なる一族」やキムタク主演の「南極大陸」を撮った人である。この二つは俺も見たことがある。両方とも真面目一方で力押しの演出をしてくる作品だった。というか演出が力押し一本やりなので、見てるとだんだん疲れてくるんだよなあ。「華麗なる一族」はストーリーが複雑巧妙かつ波乱万丈なのでまだ見れたけど、「南極大陸」は南極観測隊のエピソード集みたいなドラマなので、演出にバリエーションがないと非常にキツい。見せ場といえば、感動的な音楽が流れ、キムタクが演説を始め、それをアップでえんえんと撮る。一話につき三回はこれが出てくるのだ。アップでえんえん押すところはセルジオ・レオーネみたいだけど、レオーネのようなユーモアがまるでなく、ひたすらしんどかった覚えがある。映画ならいざ知らず、連続ドラマの場合は息抜きの場面を適当にはさまないと長丁場はもたない。コメディの得意な役者が揃っていたのに勿体ないことをしてるなあ、と思ったものだ。
 ところが「半沢直樹」では、まるで別人のように軽快でテンポのいい演出ぶりだった。今まで以上にアップを多用しながらも、役者たちの畳み掛けるような演技によって異様なハイテンションを生み出していた。キャストには知る人ぞ知る実力派を多数投入してガッチリ芝居をさせる。走るシーンや剣道の立ち回りをたくさん入れて躍動感を盛り込む。室内でもカメラワークやカット割りをアクション映画風にして、とにかく作品全体を活劇的な雰囲気でまとめ上げていた。これだけ役者と演出のボルテージが高いと視聴者は疲労困憊してしまう。ところが今回の福澤監督は引くところをちゃんと引いている。がらりと雰囲気を変えた半沢の家庭生活を随所に挿入して適度にクールダウンさせる。ミッチーの飄々としたキャラも熱量を下げる役割を果たしていた。
 監督のインタビューによると、黒澤明の「用心棒」の現代版をやりたかったそうだ。言われてみれば、軽快なテンポや登場人物の過剰なキャラ付けなんかは「用心棒」に一脈通じるところがある。悪役なんかは黒澤以上のオーバーアクションで戯画化されていて、それが一種の軽みにつながっていた。それにしてもレオーネ・タッチの福澤監督が「用心棒」をやるというのは、先祖がえりみたいでなんとなく可笑しい。
 しかし俺は「半沢直樹」を見たとき、「用心棒」よりむしろ「悪い奴ほどよく眠る」の影響のほうが強いと思った。「悪い奴ほどよく眠る」は黒澤明が「用心棒」の前年に撮った現代劇で、汚職をテーマにした社会派映画である。当時はこういう汚職の問題を正面から扱った映画がなく、脚本作りは非常に難航したらしい。この映画が公開された1960年は松本清張がようやく社会派推理小説の方向に歩み始めた時期であり、汚職に関しては「点と線」で少し扱った程度だ。山崎豊子はまだ初期の大阪商人ものを書いていた頃である。こういう題材の語り方が確立していなかった時代なのだ。難産の結果、出来上がったのは「モンテ・クリスト伯」を髣髴とさせる大時代的な復讐物語だった。この古めかしさと汚職の告発という現代的なテーマが上手く噛み合っていなかったせいか、興行は惨敗だったそうだ。
 黒澤明はその後、二本の純粋娯楽時代劇を撮ってから、再び社会派的題材に取り組む。おそらく「天国と地獄」と「赤ひげ」は、「悪い奴ほどよく眠る」の失敗をバネにして生まれた作品だろう。「悪い奴ほどよく眠る」では現代的なリアリズムと大時代的なロマンティズムが無造作に継ぎ合わされてチクハグな感じになってしまった。そこでこの二つの要素を分離させ、現代的なリアリズムで統一した現代劇の「天国と地獄」と、大時代的なロマンティズムで統一した時代劇の「赤ひげ」を作ったのだろう。この二作をもって黒澤流社会派映画は完成する。
 とはいえ、「悪い奴ほどよく眠る」の遺伝子は「半沢直樹」に脈々と受け継がれている。父親を自殺に追いやった悪人に復讐するため、身分を隠して敵の懐に入り込むという設定はまんま「半沢直樹」に踏襲されている。復讐の方法が不正を公表して社会的に抹殺することなのも同じだ。小ボスから順番に尻尾をつかんで懲らしめていくという構成も似ている。痛快な悪人成敗劇として進行していながら、最後の最後でバッドエンドになってしまう点も共通している。おまけに主人公の協力者にノイローゼ気味の気弱な男がいる。どうやら「半沢直樹」は「悪い奴ほどよく眠る」のほとんどリメイクであり、「用心棒」がやりたい云々はカモフラージュにすぎないようだ。そして福澤監督は、黒澤明が果たせなかったリアリズムとロマンティズムの融合を、半世紀のときを経て見事に果たしてしまった。どうしてそんなことが出来たのかは次回で述べる。
 聞くところによると半沢の父親が自殺したという設定は原作にはなく、悪役をもっと悪くしてほしいという堺雅人の注文に応えて監督が付け加えたものらしい。これはつまり既存の原作に新しい設定をひとつ加えただけで作品全体が化学変化を起こし、「悪い奴ほど」の復讐成就版みたいになってしまったという事である。しかも監督にそのような意図はまったくなかった。まるで奇跡のような話だが、黒澤ファンの福澤監督が無意識のうちに「悪い奴ほど」との共通点を見抜いたがためにこの原作を選んだ、と考えれば納得がいく。堺雅人の注文によって潜在意識の願望が顕在化し、積極的に化学変化を起こす方向に向かったのだろう。詳しくは次回で述べるが「悪い奴ほど」には隠れリメイクといえる作品がほかにもある。それだけ後輩たちが何とかしたくなるほどパワーのある作品だったということだ。
 以下は蛇足。「悪い奴ほどよく眠る」に関しては黒澤明自身も「無理なんだよ、話が」とストーリーの不自然さを認める発言をしている。そうなった原因について黒澤監督は、汚職のメカニズムを「直接やったら会社はやらせない」から「遠まわしに言わなきゃならなかった」と弁解している。これには公開時期が60年安保の年だったことも関係していると思う。物情騒然とした折から、東宝としても政府批判につながるような作品は許可できなかったのだろう。監督も「つくりながら隔靴掻痒の感があった」と言っている。その欠落を埋めるための「モンテ・クリスト伯」なのだろう。実際、「巌窟王をずいぶんみんなで研究した」「それが下敷きになっているといってもいいぐらい」だという。俺なんかどうしてそこで「巌窟王」なんだと思ってしまう。しかも次に撮った娯楽時代劇の下敷きは「血の収穫」だ。普通に考えると下敷きにすべき作品が逆なような気がするけど、それだとありきたりすぎて面白くないんだろうな。たしかに「用心棒」のほうは黒澤明を代表するような傑作になったわけだし。
 ところで「悪い奴ほどよく眠る」の公開から五年後の1965年に九頭竜川ダム汚職事件というのが表面化し、国会で問題になった。事件そのものはうやむやに終わったのだが、翌年には早くもこれをモデルにした小説が刊行される。石川達三の「金環蝕」である。国会の議事録を綿密に読み込んで事件を再構成した一種のドキュメント・ノベルで、関係者をして「書いてあることの八割はほんとう」とまで言わしめた作品である。そしてこの小説は、黒澤明が描こうとして果たせなかったかった「汚職のメカニズム」を、そのものズバリ、身も蓋もなく無造作にさらけ出してしまった。発表されたのがちょうど60年安保と70年安保の谷間の時期ということも関係しているかもしれない。あるいは映画会社と出版社の違いと言ってしまえばそれまでかもしれない。しかしたった五年でこういうものを出されてしまうと、本当に黒澤明の苦労した甲斐がなくなっちゃうよなあ。

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