社会派ドラマ円環(2)

 今回もしつこく「半沢直樹」について書いていくよ。前回の記事で、このドラマは黒澤明が果たせなかったリアリズムとロマンティズムの融合を、半世紀のときを経て見事に果たしてしまった、と書いた。どうしてそんなことが出来たのかをこれから明らかにしたい。でもその前に、日本の社会派ドラマの歴史をチェックしていって、「半沢直樹」にいたる流れをふりかえってみよう。
 「半沢直樹」で最も視聴率が高かった瞬間は、最後の最後、半沢が頭取の中野渡をグイッと睨みつけるラストカットだそうだ。俺はなんともニヤリとさせられる粋なラストだと思ってすっかり嬉しくなったんだけど、世間の反応はそうではなかったらしい。ネットで感想を見たら非難ごうごうである。しかし海外ドラマなんかシーズン終わりでこういうオチを持ってくるのは珍しくないし、日本の社会派映画だってバッドエンドで締めくくるのは「悪い奴ほどよく眠る」以来の伝統芸だ。俺があの睨みつけエンドを見て真っ先に思い浮かんだのは映画版「白い巨塔」のラストシーンである。監督は社会派映画の巨匠・山本薩夫だ。
 山本薩夫という人は共産党員であるにもかかわらず弱者を弾圧する側の視点を好んで描きたがる。これは被害者と加害者双方の立場を立体的に捉えようという考えからだろう。しかしなぜか弱者より強者のほうを厚みのある魅力的な人物像に造形してしまうのだ。まあそういう作風だから山崎豊子とは抜群の相性を発揮し、「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」の三本の映画を残した。山本薩夫が亡くなったとき、山崎は「これでわたしの小説を映画化できる人間がいなくなった」とまで言っている。彼女の師匠格である石川達三とも相性がよく、「人間の壁」「傷だらけの山河」「金環蝕」の三本を撮っている。複雑な原作を分かりやすく単純に物語る手腕には定評があり、特に60年代までの諸作はその絶妙なスピード感で見るものを圧倒した。演劇界の実力者で脇を固めてガッチリ芝居をさせる点も大きな特徴といえる。
 1966年に公開された山本監督の「白い巨塔」は脚本が秀逸である。余計な枝葉をバサバサと切り落とすのは当然として、後半の裁判シーンを大胆に改変して東都大学の船尾教授をキーパーソンに持ってくる。この改変はあんまり見事なので2003年のドラマ版でも取り入れられていた。映画版の脚本を担当したのは黒澤作品でおなじみの橋本忍である。この名脚本に応えるかのように、山本監督は後半の裁判シーンを息も付かせぬハイテンポで描いていく。そしてラストの睨みつけエンド。ドラマ版や現行の文庫版に慣れた人には違和感を感じるかもしれないけど、そもそも原作自体が当時はそこで終わっていたので仕方がない。作者本人はこれで完結したつもりでさっさと次の「仮装集団」にとりかかったけど、続編を求める世間の声に負けてしかたなく続きを書いたのだ。続編が刊行されたのは映画の公開から三年後の1969年である。こういう世間の反応も「半沢直樹」を髣髴とさせるね。でもそれに怒ったのか、山崎豊子は次の「華麗なる一族」では続編の書きようのない結末にしちゃったけど。
 70年代に入ると年をとってきたせいか山本薩夫のスピード感は落ちてくる。その代わりこれでもかというほどの豪華キャストをかき集めて、そのアンサンブルで見せるようになる。石川達三の「金環蝕」は出版から十年後の1975年に映画化された。原作小説は汚職のメカニズムそのものを描いた作品であり、膨大な登場人物が玉突きのようにあちこちでぶつかりながらひとつの方向に動いていく。そこには人間の動きがあるだけでドラマはない。しかも登場人物は全員悪人で感情移入できる人間がひとりもいない。そこで山本監督はモデルになった人物とそっくりな扮装をさせ、そのキャラクターをやりすぎなくらい誇張した。それによって映画全体をブラック・コメディにしてしまったのだ。キャラの誇張は黒澤明もやってるけど、それをさらに推し進めてギャグにしている。70年代以降の山本薩夫重厚長大な作風で知られているが、その中で「金環蝕」は、いかにも深刻な題材をあつかいながら不思議と軽くてモタれない作品になっていた。
 ここでちょっと日本の社会派小説の流れについて説明しておこう。前々回の記事とかぶるところもあるけど、大事なことなので二回書く。戦前から戦後にかけての社会小説は長いこと石川達三の独壇場だった。高度成長期に入ると彼の後継者といえる作家が次々と登場した。まず松本清張推理小説に社会性を加味した新しいジャンルを開拓して、それが凄まじいブームを巻き起こす。さらに大阪商人ものを書いていた山崎豊子が、石川達三のメロドラマ性をさらに増幅したような社会小説の大作を書くようになる。この二人はいわば石川達三の精神的な弟子とも言える存在だ。一方、経済学者だった城山三郎は二人とは別のアプローチから、企業社会を舞台にした人間ドラマという新しい手法を発明した。これが後に企業小説とか経済小説とか言われるジャンルに発展する。城山には社会の暗部を暴こうという意識は意外と薄い。それどころか作風がだんだん英雄伝の色彩を帯びていき、それにつれて人気が上がっていった作家である。なんとなく司馬遼太郎に一脈通じるところがある。だから俺なんかは社会派ならぬ会社派小説と呼んでいる。ともあれ社会派推理小説松本清張、社会派メロドラマの山崎豊子、会社派小説の城山三郎、この三人は政財界を舞台にした作品が多く、世間ではひとまとめにくくられることが多い。
 映像の分野に話を戻そう。社会派映画の巨匠が山本薩夫だとすればテレビドラマの世界でそれに匹敵する人物は誰か。NHKの名物ディレクター和田勉だろう。この人はただのダジャレ好きではない。手がけた作品が軒並み賞を受賞したことから、「芸術祭男」の異名を受けたほどの巨匠である。松本清張とのコラボが有名で、彼の原作で実に八本も撮っている(「文五捕物絵図」を除く)。特に70年代の後半はロッキード事件が世の中を騒がせていたせいか、いわゆる政財界の腐敗を扱った社会性の高いものを集中的にドラマ化している。「中央流砂」「棲息分布」「ザ・商社(空の城)」「けものみち」「波の塔」と、八本中五本がそれに当たる。あと城山三郎の企業小説も「堂々たる打算」「価格破壊」「勇者は語らず」と三本撮っている。
 その演出の特徴はなんと言ってもアップの多用だ。およそスペクタクルの期待できないテレビドラマにおいて、和田勉は発想を転換させ、顔を画面いっぱいに大写しすることで役者の顔面をスペクタクルにしてしまったのだ。しかもアップになるほどテンポを上げてゆく。長ゼリフを恐るべき速さでしゃべらせる。力のある役者にこれをやると、画面から異様なエネルギーが放出される。あとアバンギャルドな音の使い方も大きな特徴だ。いちばん有名なのは「阿修羅のごとく」のトルコ軍楽だろう。「けものみち」ではムソルグスキーを使ったりしている。黒澤明の対位法とも違う独特のセンスだ。さすがにこのセンスだけは真似手がいない。
 和田勉の1982年版「けものみち」を見たのはつい最近のことだけど、ラストの処理が原作と違っていた。俺はそのラストを見て思わず「あっ!」と叫んでしまった。これは「悪い奴ほどよく眠る」ではないか。ラストを変えることによって作品全体が「悪い奴ほど」の翻案みたいになっている。和田版「けものみち」の小滝は女を利用して権力者の懐に食い込もうとするが、その女を愛してしまったがために破綻する。これはまさに「悪い奴ほど」の西幸一がたどった道だ。西幸一は公団の総裁に食い込んでいったが、小滝が食い込もうとするのはさらにその上、総裁人事をあやつる政界の黒幕だ。これって「悪い奴ほど」のラストで登場する電話の相手じゃないか? そう考えると原作者は最初から「悪い奴ほど」を意識してこの小説を書いたのかもしれない。松本清張がこの小説の連載を開始したのは「悪い奴ほどよく眠る」の公開から二年後の1962年だ。それで久しぶりに「けものみち」の原作を読んでみた。学生時代にこの小説を読んだときは「わらの女」をどぎつくしただけの作品という印象だった。しかし今回あらためて読んでみると、設定の何もかもが「悪い奴ほど」を意識しているとしか思えなかった。たとえば廃墟めいた茶室が思わせぶりに何度も出てくるけど、これは「悪い奴ほど」の廃工場を髣髴とさせる。
 以下は「けものみち」が「悪い奴ほど」の翻案であると仮定した上での妄想である。そもそも小滝がフィクサーに近づいた目的というのが最後まで不透明である。しかし「悪い奴ほど」を補助線にすると目的が見えてくる。加えて完全犯罪もののセオリーから考えても、フィクサーとその取り巻きが最後に陥った状態こそ小滝の最終目的だろう。動機はフィクサーが九州の炭鉱主時代に起こした殺人。その被害者の息子がおそらく小滝なのだ。そういうロマンティズムの要素を表面上すべて取り去ることで黒澤の失敗を回避したのだろう。原作では女に心を移さなかったので復讐は成就される。清張はおそらく、「悪い奴ほど」の西幸一がいかに苦悩しようと、やってることはスケコマシではないか、ならば徹底しろよ、と言いたかったのだろう。そのラストを変えてオリジナルの「悪い奴ほど」に先祖がえりさせたのが和田勉版なのだ。つまり最後に嘘をつくことで作品にロマンティズムの皮を薄くかぶせたのである。
 山本薩夫が亡くなったのは1983年である。そのあたりから社会派の映画やドラマが作られなくなった。和田勉近松の心中ものなんかに主力を移したりしている。80年代に入ってから、社会問題の告発といった深刻な題材が急に流行らなくなったのだ。したがって映像化にふさわしい原作も書かれなくなった。以後は深刻さの薄い企業情報小説のようなものが主流になる。その代表である城山三郎がブームになるのもこの頃だ。社会派推理小説でデビューした作家は徐々に企業小説へと鞍替えしていった。要は山岡荘八司馬遼太郎を経営の教科書として読むのと同じような読まれ方である。だから教科書を必要としない層はあまり手に取らない。フレデリック・フォーサイスアーサー・ヘイリーの小説が国際情報小説というくくりで読まれるようになったのも同じ流れだろう。その流れが変わるのは二十年ほどたって二十世紀に入ったあたりからだ。

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