社会派ドラマ円環(3)

 長々と書いてきた社会派ドラマ論もようやく大詰めを迎える。前回は山本薩夫和田勉という二人の巨匠の話で終わってしまったが、今回は「半沢直樹」に直接影響を与えた作品群について語っていこう。社会派ドラマというジャンルは80年代になるといったんオワコン化してしまうが、二十一世紀に入って再び活性化することになる。きっかけは一本の映画だった。
 1999年、久しぶりに登場した大型社会派映画として話題になったのが「金融腐蝕列島 呪縛」だ。公開の二年前におきた第一勧銀による総会屋への利益供与事件をモデルにした映画だ。この作品は当時の観客に衝撃を与え、その後の社会派ドラマにもの凄い影響を与えた。原作は時事性の強い実録小説である。それを演劇界の実力者で固めたキャストで撮る、というといかにも山本薩夫を髣髴とさせる。企画段階ではきわめてオーソドックスな社会派映画である。では何が衝撃的だったのか。山本薩夫は複雑な原作をわかりやすく整理することでハイテンポな演出を実現した。しかしこの映画は複雑な原作を複雑なまま、観客無視の猛スピードで描いている。一度見ただけでは把握できないぐらい画面に情報を詰め込む(情報飽和)。セリフをかぶせたり、複数の人間をいっせいにしゃべらせる(多声法)。この情報飽和と多声法を組み合わせると観客は脳を揺さぶられて酩酊状態に陥ってしまう。フィルム・ドラッグみたいなもんだ。最初に見たとき、山本薩夫をはるかに越えるスピード感に知恵熱を出してぶっ倒れそうになった。
 しかし一番の衝撃はそこではない。この作品が凄いのは社会派映画の脚本を演出によってアクション映画に作り変えてしまったことだ。まず極端に登場人物を戯画化してオーバーアクションをさせる。長ゼリフを恐るべき早口でしゃべらせる。だがこれくらいのことは山本薩夫もやっている。それをぶん回しカメラと細かいカット割りというアクション映画の手法で撮影すると様子が一変する。強い視覚的刺激によって机上のディベートがあたかもボクシングを見るような感覚になってくるのだ。カメラだけでなく人物もやたらと動かす。なんでもないシーンでも走って移動させる。それが映画全体に躍動感を与える。このように役者も演出もかなり熱量が高い。阪本善尚による逆光を多用したクールな映像がその熱量を下げる役割をしていた。室内では常にスモークをたいてリドリー・スコットのような画面になっていた。
 監督の原田眞人は70年代にアメリカ留学して、キネ旬の特派員みたいな仕事をしていたそうだ。そのときに当時最新の演出理論を吸収したのだろう。複数の人間をいっせいにしゃべらせる多声法はロバート・アルトマンの手法だ。画面に情報を詰め込む情報飽和はジョージ・ルーカス。その後帰国して監督デビューした原田監督はVシネのアクション映画をこつこつと撮ってきた。ぶん回しカメラと細かいカット割りにプラスして情報飽和と多声法を組み合わせる個性的な演出はそんな中で生み出されたものだ。そのアクション映画の演出法をそのまま経済実録ものに適用してしまった。もっとも「経済ものをアクション映画風に撮る」やり方はオリバー・ストーンの「ウォール街」に先例があるので、あるいはそれを念頭に入れた戦略だったのかもしれない。結果はものの見事に大当たりした。こういう題材で活劇的な興奮を味わえるんだ、という驚きを観客のみならず映像業界にも与えた。
 そして2000年代に入ると各局で社会派の連続ドラマが次々と作られるようになった。ところがそのラインナップを見ると、「白い巨塔」だの「砂の器」だの「人間の証明」だの「黒革の手帳」だのと、まるで70年代にタイムスリップしたかのようなタイトルばっかりである。やっぱり80年代以降の社会派は企業情報小説が主流になっているので、連ドラの長丁場を支えるだけの物語性を持つ作品が少ないからだろう。同時代の小説でドラマ化されるのは東野圭吾の社会派ミステリーだけといっても過言ではない。昔は松本清張山崎豊子有吉佐和子がドラマ原作御三家だったけど、今は有吉佐和子が抜けてそのポジションに東野圭吾が食い込んでいる感じである。これらのドラマは随所にアクション的演出を入れたりクールな映像を入れたりしているが、思ったようにテンポが出せていない感じだ。そんな中でNHKの土曜ドラマでやっていた「ハゲタカ」は「金融腐蝕列島 呪縛」のテイストに最も近づいたハイテンポで活劇的な作品だった。
 社会派ドラマといえば昔の小説から原作を引っぱってくるのが主流な中で、WOWOWのドラマWとNHKの土曜ドラマは近年の話題作を意欲的に取り上げることが多い。池井戸潤の小説なんかはもともとドラマWと土曜ドラマが交互にドラマ化していた。土曜ドラマ和田勉の時代から断続的に続いていたけど、再び社会派ドラマに回帰したのは2005年の「クライマーズ・ハイ」からだ。そして2007年に「ハゲタカ」が登場する。このドラマは内外のテレビ賞を総なめにして話題になり、のちに映画も作られている。同じ年にはキムタク主演の「華麗なる一族」も放送されている。いわば経済小説の新作対古典のドラマ化対決だ。視聴率では「華麗なる一族」の勝ちだが、業界内の評価は圧倒的に「ハゲタカ」である。
 聞くところによると「ハゲタカ」の脚本は原作を大幅に変えているそうだ。原作の要素をバラバラに解体して、それを取捨選択する形でストーリーを練り上げたらしい。そうして出来た作品はゴールデンパラシュートだのプロキシーファイトだの色々な経済行動が出てくるけど、ぶっちゃけ何ひとつ理解してなくても楽しめるようになっていた。たとえばプロローグに当たる第一話を見てみると、いかにも外資系らしいディティールをちりばめながらも、やっていることは古典的な倒産ドラマである。「借金のカタに店を取り上げられる商店主」という昔ながらの構図だ。本編に入ってからも、局面が変化するのは大体、意外な人物が味方になったり、意外な人物が寝返ったりといった時に限られる。つまり「三国志」のような離合集散劇であり、人間関係だけ把握してれば楽しめる作品なのだ。そのため登場人物をおもいっきりキャラ立ちさせて把握を容易にしている。しかも外資を扱った作品なのに、みんな経済合理性ではなく人情で動いている、という点も視聴者に分かりやすい。あるいはこのドラマは経済ものの皮をかぶった人情ものと言ってもいいかもしれない。
 演出は「金融腐蝕列島 呪縛」の方法論をテレビ的に薄めたような感じである。おそらく同じ経済ものとしてこの映画を徹底的に研究したのだろう。カメラワークとカット割りは全編を通してアクション映画風であり、逆光を多用したクールな映像で見せてゆく。情報量の多い内容をハイテンポで次々と展開させる。「ハゲタカ」の巧妙なところはそれらの情報が本筋とあまり関係ないところである。「呪縛」の欠点は情報とストーリーが不可分の関係なので、情報を理解していないとストーリーが分からないところだ。ちゃんと理解しようとしたらもの凄い集中力がいる。劇場ならともかく、お茶の間にそれを強要することは出来ない。だから原作を一度解体して情報とストーリーを分離したのだ。ただ「呪縛」同様、演出の熱量は高いけど、役者と映像が熱量を抑える方向にむかっていて、全体的にクールさが勝った仕上がりになっている。そこらへんが若干のとっつきにくさにつながっていると思う。
 対する「華麗なる一族」はどうか。娯楽性やキャラクターの魅力という点では「ハゲタカ」に劣るけど、ストーリーの完成度はこちらのほうが高い。単純化すれば親と子で戦うシーソー・ゲームである。この親子は合併と高炉建設という、まったく別々の目的で動いている。しかしこの二つの事業はお互いにバッティングしていて、一方が上手くいくと一方が困ることになる。父親は両者がバッティングすることを知っているが、息子のほうはそもそも父親の目的を知らない。まことに複雑かつゲーム性に富んだ設定で、その攻防から決着のつけ方までアキレルほどよく出来ている。「椿三十郎」の善悪を入れ替えた感じだ。ただこのシーソー・ゲームは法律や経済行動を利用して行われるので、それらを理解しなければ楽しめない性質のものだ。だから見るのにわりと集中力を使う。とはいえ物語の本体は三代にわたる一族の愛憎劇であり、シーソー・ゲームの部分は「皮」である。山崎豊子がかぶる社会派の皮はここまで分厚いのだ。
 ストーリーがこれだけ完成されている以上、ドラマはそれを忠実に描いていけばいい。ただ、シーソー・ゲームを理解してもらわないと話にならないので、経済行動の説明は特に念入りにやらなければならない。そこで問題になるのが、これを演出するのがスローテンポの福澤克雄だということだ。つまり、ただでさえスローな演出がよけいスローモーになっていくのだ。結果、よく言えば重厚、悪く言えばしんどいドラマに仕上がった。役者はみんな熱演してるけど、それをクールダウンさせる措置をとってないので、たまに暑苦しく感じることがあった。しかし物語に力があるおかげか、その年一番の高視聴率を獲得することが出来た。続いて同様の演出法で「南極大陸」を撮ったけど、こちらは思うように視聴率が取れず、かなり苦戦したようだ。原因については俺なりの分析を前々回に書いたので省略。
 そして今年になって福澤克雄は「華麗なる一族」以来、五年ぶりにふたたび経済小説のドラマ化に挑んだ。おもしろいのは以前の方法論を踏襲するのではなく、ライバルだった「ハゲタカ」をかなり研究してその手法を取り入れたふしがあることだ。前々回に俺は「悪い奴ほどよく眠る」が「半沢直樹」に与えた影響について書いたけど、「悪い奴ほど」と同等の割合で「ハゲタカ」からも影響を受けている。スリルを加えるためにタイムリミット・サスペンスを多用したり、途中で敵に寝返った人間が結局は戻ってくるというパターンも「ハゲタカ」に出てきた。さらに回想シーンで父親が自殺に追いやられるエピソードも出てくる。その自殺が主人公の人生を変えてしまうことも共通している。「ハゲタカ」の父親もネジ工場の経営者で、銀行からの融資を打ち切られたのが原因で首をつる。その後、親切な会社が援助を申し出てくれて、残された妻が工場を切り盛りして現在にいたる。これと「悪い奴ほど」を合成すると「半沢直樹」の設定が出来上がる。いわば「悪い奴ほどよく眠る」に始まり「ハゲタカ」にいたる社会派ドラマの流れの両端が「半沢直樹」によって結び合わされ、巨大な円環を形作ることになるのだ。それがこの記事のタイトルの由来である。
 そして福澤監督は別人のようなハイテンポの演出を見せる。「半沢直樹」も「ハゲタカ」と同様、情報量が多いけど物語を楽しむのにあまり関係がない。それどころか物語と情報の分離はさらに進んでいる。半沢直樹が暴く不正は粉飾決算や迂回融資など説明するまでもない古典的な手法ばかりだ。しかしそれすら理解する必要はない。局面が変化するのは意外な人物が裏でつながっていたという情報が入手されたときだ。半沢が窮地に陥ると必ず協力者がその情報を持ってくるというパターンだ。つまり半沢がつかむ悪人の尻尾は隠された人間関係なのであり、やっぱり人間関係だけ把握していれば理解できるようになっている。脚本は比較的原作に忠実なようなので、これは原作者の手柄だろう。池井戸潤のインタビューを読むと、この作品は本格的な経済小説ではなく劇画のつもりで書いたのだそうだ。
 ここで最初の命題に戻る。なぜ「半沢直樹」は黒澤明が果たせなかったリアリズムとロマンティズムの融合を果たすことが出来たのか。黒澤は「悪い奴ほどよく眠る」でリアリズムとロマンティズムを同等の割合で描いてどっちつかずになってしまった。その後の社会派小説はリアリズムで統一するのが主流になった。山崎豊子はちょっと特殊で、濃厚なロマンティズムを持ちながらもそれを覆い隠すほど分厚いリアリズムの皮をかぶることで成功した。だから彼女の小説はとても分厚い。「半沢直樹」は逆にリアリズムの皮を薄くすることで成功した。多彩な情報をちりばめているけど、それらに舞台装置以上の意味はない。リアリズムの雰囲気さえ確保できればそれでいいのだ。悪人の行う不正は何でもいい。「水戸黄門」に出てくる悪事が何でもいいのと同じだ。これを演出用語でマクガフィンという。考えてもみたまえ。「水戸黄門」に出てくる悪人がいままでにない複雑巧妙な悪事を働いたらどうなるか。黄門様はそのからくりを暴くために(同時に視聴者に理解してもらうために)何週にもわたって延々と地味な調査を続けなければならない。それはもはや痛快時代劇ではなくなってしまう。
 従来の社会派ドラマは社会問題を解明するものだった。だから問題の説明にたっぷり時間を割き、またその説明を理解しないとストーリーが分からない性質のものだった。だが「ハゲタカ」で発明され「半沢直樹」で完成した新しい方法論はその説明の部分をストーリーから分離してマクガフィンにしてしまうというものだ。これによって従来の社会派ドラマにないスピード感を実現した。そして今の世の中で求められているのはやっぱりスピード感のほうだろう。それは「半沢直樹」の高視聴率が証明している。

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