Qの方程式(2)

 以前にも書いた覚えがあるけど、「物語」というものは「設定」と「ドラマ」で成り立っている。この二つを分解すると物語の本質が見えてくる。特に「新世紀エヴァンゲリオン」なんかそうだ。設定を取り払ってドラマ部分だけ抽出してみると、テレビシリーズ全体を通して語られているのは「人付き合い難しさ」であることが分かる。つーか、見事にそれしか描いてない。悪戦苦闘しながらようやく絆を結べたと思ったら、たちまち関係が壊れてしまう。これのくり返しである。だから物語が進むにつれて謎の解明はそっちのけで「どうして他人と上手く付き合えないんだろう」という自問自答がえんえんと繰り返されることになる。
 その骨格は新劇場版でも変わらない。序から破の前半までは周囲と絆を結んでいくドラマであり、破の後半以降はそれが次々と壊れていくドラマである。この構成はテレビシリーズを踏襲している。そこで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の設定語りの部分を取っぱらってよく見ると、この映画でやっていることはテレビ版第弐拾四話の「最後のシ者」とまったく同じだということに気付く。「最後のシ者」はこんな感じのストーリーだった。
a. アスカは家出、ミサトは酒びたり、レイは三人目。みんなすっかり変わってしまい、シンジはひとり取り残される。
b. 孤独感にさいなまれるシンジの前に、印象的な音楽を奏でながらカヲルが登場。
c. シンジは自分にやさしく接してくれるカヲルに急速に惹かれてゆく。
d. 使徒としての正体を現したカヲルに裏切られたと感じるシンジ。
e. 「第九」をバックにエヴァ同士の戦闘が繰り広げられる。
f. ゲンドウの罠に嵌ったことに気付いたカヲルは笑顔でシンジに首チョンパされる。
g. シンジは絶望して自分の殻に閉じこもってしまう。
 「絆を結んだと思ったらたちまち壊れてしまう」ドラマがここでも繰り返されていることが分かる。このストーリーラインを新しい設定の上でなぞったのがQである。方程式であらわすとこうなる。
x(a+b+c+d+e+f+g)
 この x にテレビ版の設定を代入するとイコール「最後のシ者」になり、今回の新設定を代入するとイコール新劇場版:Qになる。ではなぜ今回は前作から十四年後という設定になったのか。前作のラストから直接 a につなげるためである。テレビ版では前作のラストに相当する「男の戦い」から「最後のシ者」のあいだに、加持さんの死、レイの自爆、アスカの精神崩壊といったイベントがあった。それをはぶいて、なおかつ a につなげる方法というと、これ以外ちょっと思いつかない。世間的にはあまり評判の良くない設定だけど、シンジを一瞬にして a と同じ精神状態に持っていくためのトリックと考えると、まさに「たったひとつの、冴えたやり方」といえるのではないか。
 目が覚めたら十四年後の世界。周りの人間はみんな変わってしまい、世界から取り残されたように感じるシンジ。この場合、いきなり四面楚歌の状況に放り込まれるというシチュエーションが重要なのであって、なぜそうなったのかはどうでもいい。シンジは唯一自分を必要としてくれるレイについていくが、彼女はシンジが知っているレイではなくなっていた。テレビ版における三人目のレイと全く一緒である。まさに彼の精神は a に極めて近い状態に置かれる。そして b のカヲルとの出会い。テレビ版では「第九」をハミングしていたが、今回はゴージャスにピアノを演奏しながらの登場である。そして大浴場での裸の付き合いの代わりにピアノのレッスンを通じて c が展開される。例の「僕は君に逢うために生まれてきた云々」のセリフも再現される。
 新設定によって大幅に変化したのが d の部分である。そしてこの部分の評判がすこぶる悪い。カヲルがいきなり槍を抜けばやり直せる、みたいなことを言ってシンジを連れ出すんだけど、途中でやっぱりやめようとか言い出す。シンジは「何を言ってるのか分からないよ」とカヲルの言うことに耳を貸さない。ここは前作:破の、自分の信じる道をひたむきに進むシンジを引きずっているようだ。それを止めに入るのがアスカなんだけど、このシーンで彼女はテレビ版におけるカヲルの役割を演じている。すなわち「シンジの主観では自分を裏切ってるように見える人物」である。同じ場面にカヲルもいるので非常に複雑なことになっているけど、破でトウジの代役を務めたのと同様に、アスカはここでカヲルの役割の一部分を引き受けているのだ。
 こうして e のエヴァ同士の肉弾戦になだれ込んでいくわけだけど、今回もちゃんと「第九」がバックに流れる。そして f でカヲルはまたもやゲンドウの罠に嵌ったことを悟り、「そういうことか」と言いつつ死んでゆく。今回は直接シンジが手をかけたわけじゃないけど、まあシンジが人の話を聞かなかったせいでこうなったわけだから、結果的に彼が殺したようなもんだ。またカヲルもカヲルで、しなくてもいい首輪をわざわざ自分ではめたわけだから、自殺的なニュアンスも入っている。ちょっと強引だけど、テレビ版の構図になるべく近づけようとしているのだろう。
 映画のラストシーンが g になるわけだけど、ここで「最後のシ者」の次の「Air」の要素がちょっと入ってくる。「Air」では殻に閉じこもって動かないシンジをミサトが強引に引っぱってエヴァに乗せる。Qのラストではアスカがその代役を演じているように見える。だとすると次はどうなるのか。いずれにせよシンジのやる気スイッチを入れて死んでいく役目なのは同じだろう。もちろんその時には、大人のキスよりグレードアップしたやる気スイッチを見せてくれるに違いない。楽しみだね!
 ついでに次回作の予想をしてみよう。Qの最後についてた予告を信じるならアスカ対量産機の戦闘も再現されるようだ。新劇場版では他の人が演じた役割をアスカが代わりにやって、アスカの役をマリが果たすという法則があるようだから、量産機戦に負けて第二のスイッチを押すのはマリということになる。自我が芽生え始めたように見えるレイはやっぱり最後にゲンドウの命令を拒否するだろう。「Air」および「まごころを、君に」のドラマであと残っているのは、シンジがエヴァに乗っての補完計画発動だけである。シンジが乗るべき初号機は戦艦に組み込まれているので、ということは、つまりあの戦艦がエヴァに変形・・・・それってマクロスじゃないか! そういえばヴンダーっていかにも変形しそうなデザインだよな。まあ、ドラマとしてはここから先が本当の新作部分になるのだろう。
 興が乗ってきたのでさらに続ける。またもや量産機につかまって磔にされる初号機(ヴンダー)だったが、なんでもありの覚醒パワーで十九世紀末の中国にタイムスリップする。これが本当の「清・エヴァンゲリオン」だ。冗談抜きでシト新生庵野だったらこれくらいのことはやりかねない。それにこの時代にはあいつらがいるだろ? そう、日本からの帰国途上にあったノーチラス号クルーがここで合流するのだ! 彼らはLCL化したミサトたちの代わりにヴンダーに乗り込む。そしてシンジは過去を改変することで未来を変えられると信じ、世界各地に眠る使徒の卵をすべて破壊することを決意した。だが彼はまだ知らなかった。ヴンダーと一緒に九体の量産機もこの時代にタイムスリップしていたことを・・・・すいません、この辺にしときます。
 前作:破の最後についてた予告を見ると、当初の予定では時間を飛ばさずにいろいろイベントをこなしてから a につなげるつもりだったようだ。おそらくシンジがサルベージされるのはテレビ版と同じく一ヶ月後ぐらいで、それからミサトたちとの絆が壊れる様子をじっくり展開させるつもりだったと思われる。ところが製作途中(おそらく2011年の段階)で、予告の内容をまったく描かないという思い切った方向転換をしてしまった。震災の影響だといわれているけど、それはどうかなあ。むしろある日突然、時間ジャンプのトリックを思いついてしまったから、と考えたほうが庵野っぽいと思う。こんな上手いトリックを思いついたんだから使わない手はない、というわけだ。しょうがないよ、これがクリエイターの性だから。
 おまけにこの設定だと作品世界がリセットされた様なものだから、宇宙に飛び出そうが戦艦アクションをやろうが思いのままだ。喜ぶ監督の姿が目に浮かぶ。「ヤマト2199の総監督を出渕さんに取られて悔しいからQにも空中戦艦を出すことにした。もちろん戦艦をあやつるのはお馴染みの発令所メンバーだ」「なんで発令所メンバーが戦艦に乗らなきゃいけないんだよ」「知らないよ。ゲンドウと対立して反乱軍でも結成したんじゃない? そんなことより見てよ、この戦艦は直立するんだぜ」「戦艦の名前はなんていうの?」「名前? そうだな・・・・エバーの例もあるし、できるだけ三石さんが発音しにくい名前にしようぜ。そのほうが面白いだろ?」どうせこんな感じだろう。
 ただし当初考えていた a にいたるイベントを全部はぶいてしまった結果、内容が「最後のシ者」だけになってしまった。これまでの新劇場版では一本あたりだいたいテレビ版六話ぶんの内容が詰め込まれていた。ところがQでは一話ぶんしか入っていないのだ。最初の宇宙アクションから戦艦アクションにいたる二十分のシークエンスを除けば、残りはすべて「最後のシ者」である。上映時間で見ると七十分強だから、テレビ版の一話をおよそ三倍に水増ししている計算になる。いや、最初の二十分だってミサトが加持の遺志をついでスパイ活動を始めるエピソードの変形といえなくもないので(ひそかに反抗するか公然と反抗するかの違い)、それも含めると四倍以上に希釈されていることになる。これでスカスカにならないほうがおかしい。序と破が濃縮されていただけに、余計薄く感じる。Qのかったるさの正体はそれだったのだ。
 この作品は観客に新しい物語を提供するものではない。テレビ版弐拾四話のドラマ部分を抽出して、そこに違う設定を代入すると全く別の物語に見える、という庵野秀明の手品を鑑賞する作品である。画面上で起きている現象は違っていても、シンジの精神の流れは「最後のシ者」を忠実にトレースしている。これを手品といわずして何といおう。いかにもトリック好きで人をだまくらかすのが趣味のいたずら者である庵野監督らしい。しかし作品として退屈なことには変わりない。