嘘にもほどがある

 掃除をしてたら部屋の隅にタバスコが転がっているのを発見した。ボトルに1/3ほど残っている。相当古いタバスコらしく、中の液体がドス黒く変色していた。「もうあきまへんで」という感じの凶悪なドス黒さである。俺は「まいったなあ・・・」と思いながらも、一応、キャップをあけて匂いをかいでみた。すると上等なウイスキーを思わせるいい匂いが漂ってくるではないか。「あれれ?」と思って一滴なめてみたら、これがうまいのなんの。酸味のカドがとれて、まろやかな味わいになっている。うまみ成分が凝縮した感じになっている。後味はナンプラーに似ている。こんな事があるのかと思って調べてみた。
http://gigazine.net/news/20130513-how-tabasco-sauce-is-made/
 これに書いてあるように、タバスコはもともと発酵調味料なのだ。普通のタバスコでも三年かけて熟成される。どうやらこのドス黒タバスコは、部屋の隅で放置されているうちにいい具合に発酵が進んで、スーパー・タバスコに進化してしまったようだ。俺はもともと夏に辛いものを食べるようにしているので、この夏はスーパー・タバスコを重宝しそうだ。しかし困ったことに、何でもかんでもタバスコをドバッとかけてしまうので、ドンドン減ってきているのだ。このペースだと、ひと夏も持たないかもしれない。なにしろこの世に二つとないタバスコである。大事に使いたいのは山々だけど、うまいのでついかけすぎてしまうのだ。これは大いなるジレンマである。
 という近況報告のあとは、まったく関係ない本文をお楽しみください。
 前回の記事では「最後に嘘をつく」という作劇のテクニックについて書いた。そしたら偶然にもまた「最後に嘘をつく」映画を見てしまった。これは神さまがこのテーマでもっと書けといっているに違いない。その問題の映画とは「問題のない私たち」である。2004年公開というから、いまから九年前の作品だ。九年前はちょうど沢尻エリカがブレイクし始めの時期らしく、ビデオパッケージには沢尻主演のように書いてあるけど、主役は黒川芽以である。最初はいじめっ子だった黒川が、転校してきた沢尻によっていじめられっ子になってしまう。原作は少女マンガで、現役の中学三年生がストーリーを担当したということで話題になっていた。
 いじめをテーマにした作品としては三年後の2007年に、これまた少女まんが原作の「ライフ」というドラマが作られた。こちらのほうは過激な描写で「問題のない私たち」以上に話題になっていた。「ライフ」は見たことないけど、往年の大映ドラマばりの無茶な展開を派手な演出で見せるらしい。パッケージも何やらアクション映画風である。「問題のない私たち」のほうは一応、リアリズムで進んでいく。
 冒頭のナレーションが秀逸だ。「これはいじめなんかじゃない。潮崎マリアが私たちに与える不快感への正当防衛だ」 いじめる側の論理を端的に、しかもキャッチーに表現している。こういうセリフは書けそうでなかなか書けない。「問題のない私たち」というタイトルも皮肉たっぷりでセンスがいい。このセンスの良さは原作者の手柄だろう。ところで俺はどちらかというと人に不快感を与える側である。だからこういう心情になったことはないけど、正当防衛の必要を感じるほど他人に不快感を覚えるのは思春期の少女としては珍しくないようだ。というのも、いま「1980アイコ十六歳」を読んでいて、これと似たような記述に出くわしたのだ。
 「1980アイコ十六歳」は当時現役高校生だった堀田あけみが書いた青春小説で、史上最年少の17歳で文藝賞を受賞したというので大ブームとなった作品である。タイトル通り1980年が舞台だから、いまからざっと三十三年前の話だ。主人公の三田アイコは同じ弓道部の紅子とそりが合わなくて悩んでいた。紅子は当時の流行語だったブリッコというやつで、男子の前と女子の前では態度が変わる性格である。たったそれだけのことがアイコには気に入らない。耐え難いほどの怒りがわいてきて自分でもどうしようもないのだ。おなじく紅子に反感を持つ友人たちと悪口で盛り上がるのが日課になっていて、そのときアイコが自分たちを正当化するために主張するのが「不快感への正当防衛」論である。そういう理論武装ができてしまうと、いじめまであと一歩だな、と思ってしまう。もっともアイコの場合は正当化理論をぶち上げた直後、そんなことを言う自分を醜いと思って落ち込むので、いじめには発展しない。でも、いじめ発生の原因が思春期のこういう心理状態にあるのは間違いないだろう。
 話を戻して「問題のない私たち」だ。この映画はオムニバスになっていて、いじめの話は前半の五十分で終わり、後半は別の話になる。そしてなぜか前半と後半の間に、美少女たちの水着プロモーション映像が五分ほど挿入されるのだ。どうしてそんな構成なのかというと、この映画は原作まんがを一ページずつ引き写したような脚本になっている。つまり、まんがをそのまま映像化したら自然と五十分で終わってしまうのだ。普通はそういう場合、内容を膨らませて九十分に引き伸ばす。ところが製作者はそんなことをせず、原作の第二部を後半に持ってきた。だから観客に気持ちをリセットしてもらうために水着プロモーション映像をはさんだのだろう。でも、さっきまでさんざんいがみ合っていた人たちが、急に仲良く水遊びしている映像を見せられたので少し戸惑った。しかしまあ、あくまでイメージ映像と解釈すればそんなに気にしなくていいだろう。
 後半は教師の万引きを目撃してしまった黒川芽以が、その教師から目の敵にされるという話だ。リアルな前半とは打って変わって、後半はサスペンスタッチで娯楽性を前面に押し出してくる。残り時間が少ないので演出もスピーディだ。そして後半の最後でこの映画は嘘をつく。前回の記事で書いた「愛と青春の旅だち」と違って、この嘘のつき方があまりよろしくないのだ。これ以上ないというぐらい泥沼だった状況が急に解決してしまい、あれほどいがみ合っていた二人が次のシーンでは仲良く談笑しているのだ。これはイメージ映像ではなく、ドラマの一部である。やっぱり、いくらなんでも急転直下すぎるだろう。ものには段取りというものがあるのだ。
 物語というものは多かれ少なかれご都合主義で進むものである。しかし観客にそれと悟られないようにするのが鉄則である。そのためのテクニックが伏線という奴だ。昔から、ご都合主義を隠すためには伏線を張るものと相場が決まっている。これは作劇の基本である。誰でも思い浮かぶのは、問題解決のヒントを実は前もって教えられていた、というパターンだ。それから「愛と青春の旅だち」で使われていたのは、一見、何の関係もないエピソードが登場人物の心情におおきな影響を与えてしまう、というパターンの伏線である。この手の伏線は観客に対して、登場人物の心変わりをなんとなく納得させる効果がある。これを心情的伏線と名づけよう。そして「問題のない私たち」で入れるべきだったのは、この心情的伏線である。泥沼の状況が一発逆転的に解決するのはまだ納得できる。納得できないのはいがみ合っていた両者が急に何事もなかったかのように仲良くなるという不自然さである。たとえ物語上必要なくても、観客の心理的抵抗を軽減させるためには、やはり心情的伏線が必要だと思う。
 そういえば、いがみ合っていた人たちが最後に急に仲良くなるという作品をもうひとつ知っている。1999年に放送された「無限のリヴァイアス」というアニメだ。これはゴールディングの「蝿の王」を宇宙SFに翻案したような物語で、のちに「コードギアス」を大ヒットさせる谷口悟朗の初監督作品である。最初のほうはアニメにありがちの、何の説明もなく専門用語をまくしたてる手法に戸惑うが、設定が出揃ってくる四話あたりから、がぜん面白くなる。そこから最終話の直前まで緊張感が持続していて、みごとな出来ばえなのだ。しかし最後がやっぱりご都合主義的なんだよなあ。理由は簡単だ。主人公の心情はくどいぐらいに描かれているんだけど、それ以外の登場人物の心情が分からないからだ。心情的伏線がないから、いくら一年が経過したからって、やっぱり唐突に感じてしまうのだ。あと数人でいいから心情的変化を感じさせるエピソードを入れておけば、ここまでご都合主義を感じることはなかっただろう。心情的変化といっても、べつにエピソードは何だっていい。それこそ子犬を拾わせるだけでもかまわない。とにかく「お、このキャラは変化したな」という雰囲気さえ出ればいいのだ。
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