Qの方程式(2)

 以前にも書いた覚えがあるけど、「物語」というものは「設定」と「ドラマ」で成り立っている。この二つを分解すると物語の本質が見えてくる。特に「新世紀エヴァンゲリオン」なんかそうだ。設定を取り払ってドラマ部分だけ抽出してみると、テレビシリーズ全体を通して語られているのは「人付き合い難しさ」であることが分かる。つーか、見事にそれしか描いてない。悪戦苦闘しながらようやく絆を結べたと思ったら、たちまち関係が壊れてしまう。これのくり返しである。だから物語が進むにつれて謎の解明はそっちのけで「どうして他人と上手く付き合えないんだろう」という自問自答がえんえんと繰り返されることになる。
 その骨格は新劇場版でも変わらない。序から破の前半までは周囲と絆を結んでいくドラマであり、破の後半以降はそれが次々と壊れていくドラマである。この構成はテレビシリーズを踏襲している。そこで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の設定語りの部分を取っぱらってよく見ると、この映画でやっていることはテレビ版第弐拾四話の「最後のシ者」とまったく同じだということに気付く。「最後のシ者」はこんな感じのストーリーだった。
a. アスカは家出、ミサトは酒びたり、レイは三人目。みんなすっかり変わってしまい、シンジはひとり取り残される。
b. 孤独感にさいなまれるシンジの前に、印象的な音楽を奏でながらカヲルが登場。
c. シンジは自分にやさしく接してくれるカヲルに急速に惹かれてゆく。
d. 使徒としての正体を現したカヲルに裏切られたと感じるシンジ。
e. 「第九」をバックにエヴァ同士の戦闘が繰り広げられる。
f. ゲンドウの罠に嵌ったことに気付いたカヲルは笑顔でシンジに首チョンパされる。
g. シンジは絶望して自分の殻に閉じこもってしまう。
 「絆を結んだと思ったらたちまち壊れてしまう」ドラマがここでも繰り返されていることが分かる。このストーリーラインを新しい設定の上でなぞったのがQである。方程式であらわすとこうなる。
x(a+b+c+d+e+f+g)
 この x にテレビ版の設定を代入するとイコール「最後のシ者」になり、今回の新設定を代入するとイコール新劇場版:Qになる。ではなぜ今回は前作から十四年後という設定になったのか。前作のラストから直接 a につなげるためである。テレビ版では前作のラストに相当する「男の戦い」から「最後のシ者」のあいだに、加持さんの死、レイの自爆、アスカの精神崩壊といったイベントがあった。それをはぶいて、なおかつ a につなげる方法というと、これ以外ちょっと思いつかない。世間的にはあまり評判の良くない設定だけど、シンジを一瞬にして a と同じ精神状態に持っていくためのトリックと考えると、まさに「たったひとつの、冴えたやり方」といえるのではないか。
 目が覚めたら十四年後の世界。周りの人間はみんな変わってしまい、世界から取り残されたように感じるシンジ。この場合、いきなり四面楚歌の状況に放り込まれるというシチュエーションが重要なのであって、なぜそうなったのかはどうでもいい。シンジは唯一自分を必要としてくれるレイについていくが、彼女はシンジが知っているレイではなくなっていた。テレビ版における三人目のレイと全く一緒である。まさに彼の精神は a に極めて近い状態に置かれる。そして b のカヲルとの出会い。テレビ版では「第九」をハミングしていたが、今回はゴージャスにピアノを演奏しながらの登場である。そして大浴場での裸の付き合いの代わりにピアノのレッスンを通じて c が展開される。例の「僕は君に逢うために生まれてきた云々」のセリフも再現される。
 新設定によって大幅に変化したのが d の部分である。そしてこの部分の評判がすこぶる悪い。カヲルがいきなり槍を抜けばやり直せる、みたいなことを言ってシンジを連れ出すんだけど、途中でやっぱりやめようとか言い出す。シンジは「何を言ってるのか分からないよ」とカヲルの言うことに耳を貸さない。ここは前作:破の、自分の信じる道をひたむきに進むシンジを引きずっているようだ。それを止めに入るのがアスカなんだけど、このシーンで彼女はテレビ版におけるカヲルの役割を演じている。すなわち「シンジの主観では自分を裏切ってるように見える人物」である。同じ場面にカヲルもいるので非常に複雑なことになっているけど、破でトウジの代役を務めたのと同様に、アスカはここでカヲルの役割の一部分を引き受けているのだ。
 こうして e のエヴァ同士の肉弾戦になだれ込んでいくわけだけど、今回もちゃんと「第九」がバックに流れる。そして f でカヲルはまたもやゲンドウの罠に嵌ったことを悟り、「そういうことか」と言いつつ死んでゆく。今回は直接シンジが手をかけたわけじゃないけど、まあシンジが人の話を聞かなかったせいでこうなったわけだから、結果的に彼が殺したようなもんだ。またカヲルもカヲルで、しなくてもいい首輪をわざわざ自分ではめたわけだから、自殺的なニュアンスも入っている。ちょっと強引だけど、テレビ版の構図になるべく近づけようとしているのだろう。
 映画のラストシーンが g になるわけだけど、ここで「最後のシ者」の次の「Air」の要素がちょっと入ってくる。「Air」では殻に閉じこもって動かないシンジをミサトが強引に引っぱってエヴァに乗せる。Qのラストではアスカがその代役を演じているように見える。だとすると次はどうなるのか。いずれにせよシンジのやる気スイッチを入れて死んでいく役目なのは同じだろう。もちろんその時には、大人のキスよりグレードアップしたやる気スイッチを見せてくれるに違いない。楽しみだね!
 ついでに次回作の予想をしてみよう。Qの最後についてた予告を信じるならアスカ対量産機の戦闘も再現されるようだ。新劇場版では他の人が演じた役割をアスカが代わりにやって、アスカの役をマリが果たすという法則があるようだから、量産機戦に負けて第二のスイッチを押すのはマリということになる。自我が芽生え始めたように見えるレイはやっぱり最後にゲンドウの命令を拒否するだろう。「Air」および「まごころを、君に」のドラマであと残っているのは、シンジがエヴァに乗っての補完計画発動だけである。シンジが乗るべき初号機は戦艦に組み込まれているので、ということは、つまりあの戦艦がエヴァに変形・・・・それってマクロスじゃないか! そういえばヴンダーっていかにも変形しそうなデザインだよな。まあ、ドラマとしてはここから先が本当の新作部分になるのだろう。
 興が乗ってきたのでさらに続ける。またもや量産機につかまって磔にされる初号機(ヴンダー)だったが、なんでもありの覚醒パワーで十九世紀末の中国にタイムスリップする。これが本当の「清・エヴァンゲリオン」だ。冗談抜きでシト新生庵野だったらこれくらいのことはやりかねない。それにこの時代にはあいつらがいるだろ? そう、日本からの帰国途上にあったノーチラス号クルーがここで合流するのだ! 彼らはLCL化したミサトたちの代わりにヴンダーに乗り込む。そしてシンジは過去を改変することで未来を変えられると信じ、世界各地に眠る使徒の卵をすべて破壊することを決意した。だが彼はまだ知らなかった。ヴンダーと一緒に九体の量産機もこの時代にタイムスリップしていたことを・・・・すいません、この辺にしときます。
 前作:破の最後についてた予告を見ると、当初の予定では時間を飛ばさずにいろいろイベントをこなしてから a につなげるつもりだったようだ。おそらくシンジがサルベージされるのはテレビ版と同じく一ヶ月後ぐらいで、それからミサトたちとの絆が壊れる様子をじっくり展開させるつもりだったと思われる。ところが製作途中(おそらく2011年の段階)で、予告の内容をまったく描かないという思い切った方向転換をしてしまった。震災の影響だといわれているけど、それはどうかなあ。むしろある日突然、時間ジャンプのトリックを思いついてしまったから、と考えたほうが庵野っぽいと思う。こんな上手いトリックを思いついたんだから使わない手はない、というわけだ。しょうがないよ、これがクリエイターの性だから。
 おまけにこの設定だと作品世界がリセットされた様なものだから、宇宙に飛び出そうが戦艦アクションをやろうが思いのままだ。喜ぶ監督の姿が目に浮かぶ。「ヤマト2199の総監督を出渕さんに取られて悔しいからQにも空中戦艦を出すことにした。もちろん戦艦をあやつるのはお馴染みの発令所メンバーだ」「なんで発令所メンバーが戦艦に乗らなきゃいけないんだよ」「知らないよ。ゲンドウと対立して反乱軍でも結成したんじゃない? そんなことより見てよ、この戦艦は直立するんだぜ」「戦艦の名前はなんていうの?」「名前? そうだな・・・・エバーの例もあるし、できるだけ三石さんが発音しにくい名前にしようぜ。そのほうが面白いだろ?」どうせこんな感じだろう。
 ただし当初考えていた a にいたるイベントを全部はぶいてしまった結果、内容が「最後のシ者」だけになってしまった。これまでの新劇場版では一本あたりだいたいテレビ版六話ぶんの内容が詰め込まれていた。ところがQでは一話ぶんしか入っていないのだ。最初の宇宙アクションから戦艦アクションにいたる二十分のシークエンスを除けば、残りはすべて「最後のシ者」である。上映時間で見ると七十分強だから、テレビ版の一話をおよそ三倍に水増ししている計算になる。いや、最初の二十分だってミサトが加持の遺志をついでスパイ活動を始めるエピソードの変形といえなくもないので(ひそかに反抗するか公然と反抗するかの違い)、それも含めると四倍以上に希釈されていることになる。これでスカスカにならないほうがおかしい。序と破が濃縮されていただけに、余計薄く感じる。Qのかったるさの正体はそれだったのだ。
 この作品は観客に新しい物語を提供するものではない。テレビ版弐拾四話のドラマ部分を抽出して、そこに違う設定を代入すると全く別の物語に見える、という庵野秀明の手品を鑑賞する作品である。画面上で起きている現象は違っていても、シンジの精神の流れは「最後のシ者」を忠実にトレースしている。これを手品といわずして何といおう。いかにもトリック好きで人をだまくらかすのが趣味のいたずら者である庵野監督らしい。しかし作品として退屈なことには変わりない。

Qの方程式

 恥ずかしながら今頃になってようやく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見た。いや、ネットで悪い評判しか聞かないから怖くて見れなかったんだよ。でも先週、図書館に行ったらDVDのコーナーにQを発見したので思わず借りてしまった。劇場公開から二年近くたってやっとこさ観賞したんだけど、やっぱりイマイチ面白くなかったなあ。なんだか退屈でかったるくて。前作の破はあんなに面白かったのに・・・・
 前作の破にはすっかり度肝を抜かれた。アクションの連続であきさせないし、そのアクションもテレビ版よりグレードアップされていて見ごたえがあった。ただ前半のドラマがちょっと弱いと思った。前半でシンジとアスカに絆ができる様子をしっかり見せておかないと後半が生きてこないからだ。トウジとの殴り殴られ、「笑えばいいと思うよ」からの笑顔といった分かりやすいターニングポイントがなく、いつの間にか学園エヴァ的ラブコメ展開になってしまう。しかも破ではシンジとアスカの共同作戦は一回のみ。選ばれたのは「奇跡の価値は」のサハクィエル戦だった。おそらくアクション重視の観点から選ばれたのだろう。確かにあのシーンの視覚的快楽はドラマの弱さを吹き飛ばすぐらい凄かったけど、あのエピソードはゲンドウとのターニングポイントなんだよなあ。
 Qのアクションはどうだったかというと、確かにCGを駆使してぐるぐる回るカメラワークを実現するなど意欲的だった。しかしこれが視覚的快楽において効果を上げているかといえばそうでもない。あまりにもカメラをぶん回しすぎて被写体に何が起きているのか非常に分かりにくいのだ。状況の把握に神経を使うあまり、前作ほどのめり込むことができなかった。しかしQがイマイチなのはそれが原因ではない。内容が薄いからである。構成としては最初にアクションが連続するシークエンスをたっぷり二十分見せる。最後にエヴァ同士の戦闘を二十分間にわたって繰り広げる。そのあいだの五十分をドラマでつなげるという感じになっている。このドラマ部分がスカスカなのだ。新設定が大量に出てきて時間が足りないぐらいだ、と思う人もいるだろうが、それは違う。あの映画は逆に時間を相当もてあましている。どうしてそう言い切れるのかを説明するには、おれが始めてエヴァを見たときのことから語り始める必要がある。
 おれとエヴァとの出会いは1997年にさかのぼる。そう、旧劇場版が公開された年だ。当時のおれは大学のサークルで自主映画なんぞを作っていた。その日は友達の家で昼からロケを始めて、深夜にようやく撮影を終えた。終電もなくなったのでそのまま始発が動く時間まで酒盛りを始めた。するとスタッフの一人がおもむろにテレビをつけて「エヴァがやってる、エヴァがやってる」と騒ぎ始めたのだ。聞けば劇場版が公開されるのでテレビシリーズをまとめて放送しているのだという。たちまちおれ以外のスタッフやキャストが盛り上がった。みんなそのアニメを見ていたのだ。流行っているとは聞いていたけど、まさかここまでとは思わなかった。おれは動揺しながらも、みんなについてこうと必死で画面に集中した。
 運の悪いことに、その日やってたのはテレビシリーズの終わり三話だった。素晴らしいビジュアルセンスだとは思ったけど、内容が何ひとつ理解できない。「これはどういう意味なの?」と聞いても、みんな嬉しそうに「分からん分からん」というだけだった。見てるくせに分からないはずないだろ、と思ったけど、このときはまだエヴァンゲリオンというのはそういう作品なんだということを知らなかった。これがおれのエヴァ初体験である。
 放送中に何度も劇場版のCMが流れてたけど、これもなかなか斬新なCMだった。ヴェルディの「怒りの日」をバックに映像、活字、イラストが凄いスピードで切り替わるというものだ。ただ、この手法は「時計じかけのオレンジ」の予告をヒントにしてるな、ということは分かった。劇場版のタイトルは「シト新生」というこれまた一風変わったものだった。シトというのは使徒のことで、エヴァ世界における敵の呼び名なんだそうだ。このときは「へえ」と思っただけだったが、それから半年後、劇場版第二弾の「Air/まごころを、君に」を見るにいたってようやくその真意に気がついた。テレビシリーズでさんざん「使徒使徒」と言ってたんだから、「シト新生」というタイトルを見れば誰だって「使徒(が)新生(する)」と思うに決まっている。ところが劇場版で描いていたのは「(人類の)死と新生」だった。つまりシトというカタカナ表記は観客のミスリードを誘うトリックだったのである。これに気付いたとき、監督の庵野秀明という人はトリック好きのいたずら者なんだなあ、と思った。
 ここからが本題なんだけど、その時おれが作ってた自主映画はラブコメだった。ラブコメといっても皆さんが想像するような惚れた腫れたの物語とは少し違って、暴走した人間たちの激突を描いたブラックな作品である。そもそもは「お宝の取り合い」をやりたかったのだ。いろいろ考えてるうちに「お宝」を「人間」でやってみてはどうか、というアイディアを思いついた。「人間の取り合い」というのはつまり恋愛だ。恋愛模様をあたかもお宝の取り合いのように描けば面白いんじゃないか。そこで最初に、いくつかあるお宝の取り合いものに共通するプロットを抽出する作業をしてみた。徒手空拳の主人公が知恵と勇気を駆使して難攻不落の要塞に攻め込み、みごとお宝を奪い取る。しかしお宝を奪われたと知った敵は、豊富な人員を投入して主人公を追いかける。だいたいこれが基本である。このプロットに恋愛ものの設定をかぶせればいい。
 主人公は名もなく貧しい女の子で、悲惨な境遇から必死で這い上がろうとするハングリー精神のもち主。敵は財閥のお嬢様で大勢の人間を手足のように動かすことができるワガママ娘。問題はお宝をどうするかだけど、いろいろ悩んだ末、二人のあいだを行ったりきたりするのに何の疑問も持たないような、およそ主体性のない中身カラッポの男にした。そんな人間がいるわけないんだけど、強引にそう設定することでもの凄くインパクトのあるキャラになった。この設定で上記のプロットを動かしてみたら妙な化学反応を起こして、非常にヘンテコでバカバカしくもエネルギッシュな作品に仕上がった。上映会でもバカウケだった。
 なぜ長々とこんな話をするかというと、Qで庵野監督がやったのはこれと全く同じことだからである。つまりある物語から骨組みとなるプロットを抽出して、それに別の設定をかぶせることで新たな化学反応を起こす、というやり方である。同様の手法を用いた作品としては、古典的な怪盗対名探偵の骨組みにプロのスナイパーによる要人暗殺という現代的な設定をかぶせた「ジャッカルの日」、世界の英雄伝説に共通するプロットを抽出したものにスペースオペラの設定をかぶせた「スターウォーズ」がある。おれは経験者だからQを見たとたんに分かったぜ。
 今回のQでは新設定がいろいろ出てきて新たなストーリーが展開しているように見えるけど、冷静に考えてみてくれ。エヴァ世界において設定に何の意味もないことはこれまでさんざん思い知らされてきたじゃないか。「アダムだよ」のセリフを「ネブカドネザルの鍵だ」と機械的に入れ替えても何の支障もないのだから。庵野監督の考え方はこうである。「完全武装の要塞都市に次々と怪獣が攻めて来るって面白くね?」「なんで怪獣がそこばっかり攻めてくるんだよ」「知らないよ、なんか怪獣を引き寄せるものが地下に眠ってるんじゃない? そんなことより見てよ、ビルだと思ったらパカッと開いて中からマシンガンが出てくるんだぜ」一事が万事この調子である。
 つまりエヴァ世界における設定というのは完全にマクガフィンであり、すべてが後付けのこじつけなのだ。本来マクガフィンというものは無意味であることを観客に悟られないようになるべく説得力のある設定にするものだが、エヴァ世界においてはあからさまに抽象的でリアリティのない設定をことさら目立つように並べ立てる。たとえば「怪獣を引き寄せるもの」を設定するとき、考えられる候補の中から最もありそうにない「磔にされた巨人」を採用する。この逆転の発想こそ庵野監督最大の発明といえる。あまりにも意味が分からないもんだから、観客は納得のいく説明を求めたがる。しかし物語は謎を解明する方向には決して向かわない。謎めいた設定の数々は単にアクションを発生させる装置に過ぎず、そこを掘り下げたって何も生まれないからだ。
 ではQで大量に出てきた新設定をぜんぶ取っ払って骨組みを露出させると何が出てくるか。勘のいい読者はもうお分かりと思うが、テレビシリーズ第弐拾四話「最後のシ者」である。そう、この映画はテレビ版を離れて新たな展開を見せているようで、実は全く離れていなかったのである。次回はいかにQが「最後のシ者」を換骨奪胎しているかを具体的に説明しよう。

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社会派ドラマ円環(3)

 長々と書いてきた社会派ドラマ論もようやく大詰めを迎える。前回は山本薩夫和田勉という二人の巨匠の話で終わってしまったが、今回は「半沢直樹」に直接影響を与えた作品群について語っていこう。社会派ドラマというジャンルは80年代になるといったんオワコン化してしまうが、二十一世紀に入って再び活性化することになる。きっかけは一本の映画だった。
 1999年、久しぶりに登場した大型社会派映画として話題になったのが「金融腐蝕列島 呪縛」だ。公開の二年前におきた第一勧銀による総会屋への利益供与事件をモデルにした映画だ。この作品は当時の観客に衝撃を与え、その後の社会派ドラマにもの凄い影響を与えた。原作は時事性の強い実録小説である。それを演劇界の実力者で固めたキャストで撮る、というといかにも山本薩夫を髣髴とさせる。企画段階ではきわめてオーソドックスな社会派映画である。では何が衝撃的だったのか。山本薩夫は複雑な原作をわかりやすく整理することでハイテンポな演出を実現した。しかしこの映画は複雑な原作を複雑なまま、観客無視の猛スピードで描いている。一度見ただけでは把握できないぐらい画面に情報を詰め込む(情報飽和)。セリフをかぶせたり、複数の人間をいっせいにしゃべらせる(多声法)。この情報飽和と多声法を組み合わせると観客は脳を揺さぶられて酩酊状態に陥ってしまう。フィルム・ドラッグみたいなもんだ。最初に見たとき、山本薩夫をはるかに越えるスピード感に知恵熱を出してぶっ倒れそうになった。
 しかし一番の衝撃はそこではない。この作品が凄いのは社会派映画の脚本を演出によってアクション映画に作り変えてしまったことだ。まず極端に登場人物を戯画化してオーバーアクションをさせる。長ゼリフを恐るべき早口でしゃべらせる。だがこれくらいのことは山本薩夫もやっている。それをぶん回しカメラと細かいカット割りというアクション映画の手法で撮影すると様子が一変する。強い視覚的刺激によって机上のディベートがあたかもボクシングを見るような感覚になってくるのだ。カメラだけでなく人物もやたらと動かす。なんでもないシーンでも走って移動させる。それが映画全体に躍動感を与える。このように役者も演出もかなり熱量が高い。阪本善尚による逆光を多用したクールな映像がその熱量を下げる役割をしていた。室内では常にスモークをたいてリドリー・スコットのような画面になっていた。
 監督の原田眞人は70年代にアメリカ留学して、キネ旬の特派員みたいな仕事をしていたそうだ。そのときに当時最新の演出理論を吸収したのだろう。複数の人間をいっせいにしゃべらせる多声法はロバート・アルトマンの手法だ。画面に情報を詰め込む情報飽和はジョージ・ルーカス。その後帰国して監督デビューした原田監督はVシネのアクション映画をこつこつと撮ってきた。ぶん回しカメラと細かいカット割りにプラスして情報飽和と多声法を組み合わせる個性的な演出はそんな中で生み出されたものだ。そのアクション映画の演出法をそのまま経済実録ものに適用してしまった。もっとも「経済ものをアクション映画風に撮る」やり方はオリバー・ストーンの「ウォール街」に先例があるので、あるいはそれを念頭に入れた戦略だったのかもしれない。結果はものの見事に大当たりした。こういう題材で活劇的な興奮を味わえるんだ、という驚きを観客のみならず映像業界にも与えた。
 そして2000年代に入ると各局で社会派の連続ドラマが次々と作られるようになった。ところがそのラインナップを見ると、「白い巨塔」だの「砂の器」だの「人間の証明」だの「黒革の手帳」だのと、まるで70年代にタイムスリップしたかのようなタイトルばっかりである。やっぱり80年代以降の社会派は企業情報小説が主流になっているので、連ドラの長丁場を支えるだけの物語性を持つ作品が少ないからだろう。同時代の小説でドラマ化されるのは東野圭吾の社会派ミステリーだけといっても過言ではない。昔は松本清張山崎豊子有吉佐和子がドラマ原作御三家だったけど、今は有吉佐和子が抜けてそのポジションに東野圭吾が食い込んでいる感じである。これらのドラマは随所にアクション的演出を入れたりクールな映像を入れたりしているが、思ったようにテンポが出せていない感じだ。そんな中でNHKの土曜ドラマでやっていた「ハゲタカ」は「金融腐蝕列島 呪縛」のテイストに最も近づいたハイテンポで活劇的な作品だった。
 社会派ドラマといえば昔の小説から原作を引っぱってくるのが主流な中で、WOWOWのドラマWとNHKの土曜ドラマは近年の話題作を意欲的に取り上げることが多い。池井戸潤の小説なんかはもともとドラマWと土曜ドラマが交互にドラマ化していた。土曜ドラマ和田勉の時代から断続的に続いていたけど、再び社会派ドラマに回帰したのは2005年の「クライマーズ・ハイ」からだ。そして2007年に「ハゲタカ」が登場する。このドラマは内外のテレビ賞を総なめにして話題になり、のちに映画も作られている。同じ年にはキムタク主演の「華麗なる一族」も放送されている。いわば経済小説の新作対古典のドラマ化対決だ。視聴率では「華麗なる一族」の勝ちだが、業界内の評価は圧倒的に「ハゲタカ」である。
 聞くところによると「ハゲタカ」の脚本は原作を大幅に変えているそうだ。原作の要素をバラバラに解体して、それを取捨選択する形でストーリーを練り上げたらしい。そうして出来た作品はゴールデンパラシュートだのプロキシーファイトだの色々な経済行動が出てくるけど、ぶっちゃけ何ひとつ理解してなくても楽しめるようになっていた。たとえばプロローグに当たる第一話を見てみると、いかにも外資系らしいディティールをちりばめながらも、やっていることは古典的な倒産ドラマである。「借金のカタに店を取り上げられる商店主」という昔ながらの構図だ。本編に入ってからも、局面が変化するのは大体、意外な人物が味方になったり、意外な人物が寝返ったりといった時に限られる。つまり「三国志」のような離合集散劇であり、人間関係だけ把握してれば楽しめる作品なのだ。そのため登場人物をおもいっきりキャラ立ちさせて把握を容易にしている。しかも外資を扱った作品なのに、みんな経済合理性ではなく人情で動いている、という点も視聴者に分かりやすい。あるいはこのドラマは経済ものの皮をかぶった人情ものと言ってもいいかもしれない。
 演出は「金融腐蝕列島 呪縛」の方法論をテレビ的に薄めたような感じである。おそらく同じ経済ものとしてこの映画を徹底的に研究したのだろう。カメラワークとカット割りは全編を通してアクション映画風であり、逆光を多用したクールな映像で見せてゆく。情報量の多い内容をハイテンポで次々と展開させる。「ハゲタカ」の巧妙なところはそれらの情報が本筋とあまり関係ないところである。「呪縛」の欠点は情報とストーリーが不可分の関係なので、情報を理解していないとストーリーが分からないところだ。ちゃんと理解しようとしたらもの凄い集中力がいる。劇場ならともかく、お茶の間にそれを強要することは出来ない。だから原作を一度解体して情報とストーリーを分離したのだ。ただ「呪縛」同様、演出の熱量は高いけど、役者と映像が熱量を抑える方向にむかっていて、全体的にクールさが勝った仕上がりになっている。そこらへんが若干のとっつきにくさにつながっていると思う。
 対する「華麗なる一族」はどうか。娯楽性やキャラクターの魅力という点では「ハゲタカ」に劣るけど、ストーリーの完成度はこちらのほうが高い。単純化すれば親と子で戦うシーソー・ゲームである。この親子は合併と高炉建設という、まったく別々の目的で動いている。しかしこの二つの事業はお互いにバッティングしていて、一方が上手くいくと一方が困ることになる。父親は両者がバッティングすることを知っているが、息子のほうはそもそも父親の目的を知らない。まことに複雑かつゲーム性に富んだ設定で、その攻防から決着のつけ方までアキレルほどよく出来ている。「椿三十郎」の善悪を入れ替えた感じだ。ただこのシーソー・ゲームは法律や経済行動を利用して行われるので、それらを理解しなければ楽しめない性質のものだ。だから見るのにわりと集中力を使う。とはいえ物語の本体は三代にわたる一族の愛憎劇であり、シーソー・ゲームの部分は「皮」である。山崎豊子がかぶる社会派の皮はここまで分厚いのだ。
 ストーリーがこれだけ完成されている以上、ドラマはそれを忠実に描いていけばいい。ただ、シーソー・ゲームを理解してもらわないと話にならないので、経済行動の説明は特に念入りにやらなければならない。そこで問題になるのが、これを演出するのがスローテンポの福澤克雄だということだ。つまり、ただでさえスローな演出がよけいスローモーになっていくのだ。結果、よく言えば重厚、悪く言えばしんどいドラマに仕上がった。役者はみんな熱演してるけど、それをクールダウンさせる措置をとってないので、たまに暑苦しく感じることがあった。しかし物語に力があるおかげか、その年一番の高視聴率を獲得することが出来た。続いて同様の演出法で「南極大陸」を撮ったけど、こちらは思うように視聴率が取れず、かなり苦戦したようだ。原因については俺なりの分析を前々回に書いたので省略。
 そして今年になって福澤克雄は「華麗なる一族」以来、五年ぶりにふたたび経済小説のドラマ化に挑んだ。おもしろいのは以前の方法論を踏襲するのではなく、ライバルだった「ハゲタカ」をかなり研究してその手法を取り入れたふしがあることだ。前々回に俺は「悪い奴ほどよく眠る」が「半沢直樹」に与えた影響について書いたけど、「悪い奴ほど」と同等の割合で「ハゲタカ」からも影響を受けている。スリルを加えるためにタイムリミット・サスペンスを多用したり、途中で敵に寝返った人間が結局は戻ってくるというパターンも「ハゲタカ」に出てきた。さらに回想シーンで父親が自殺に追いやられるエピソードも出てくる。その自殺が主人公の人生を変えてしまうことも共通している。「ハゲタカ」の父親もネジ工場の経営者で、銀行からの融資を打ち切られたのが原因で首をつる。その後、親切な会社が援助を申し出てくれて、残された妻が工場を切り盛りして現在にいたる。これと「悪い奴ほど」を合成すると「半沢直樹」の設定が出来上がる。いわば「悪い奴ほどよく眠る」に始まり「ハゲタカ」にいたる社会派ドラマの流れの両端が「半沢直樹」によって結び合わされ、巨大な円環を形作ることになるのだ。それがこの記事のタイトルの由来である。
 そして福澤監督は別人のようなハイテンポの演出を見せる。「半沢直樹」も「ハゲタカ」と同様、情報量が多いけど物語を楽しむのにあまり関係がない。それどころか物語と情報の分離はさらに進んでいる。半沢直樹が暴く不正は粉飾決算や迂回融資など説明するまでもない古典的な手法ばかりだ。しかしそれすら理解する必要はない。局面が変化するのは意外な人物が裏でつながっていたという情報が入手されたときだ。半沢が窮地に陥ると必ず協力者がその情報を持ってくるというパターンだ。つまり半沢がつかむ悪人の尻尾は隠された人間関係なのであり、やっぱり人間関係だけ把握していれば理解できるようになっている。脚本は比較的原作に忠実なようなので、これは原作者の手柄だろう。池井戸潤のインタビューを読むと、この作品は本格的な経済小説ではなく劇画のつもりで書いたのだそうだ。
 ここで最初の命題に戻る。なぜ「半沢直樹」は黒澤明が果たせなかったリアリズムとロマンティズムの融合を果たすことが出来たのか。黒澤は「悪い奴ほどよく眠る」でリアリズムとロマンティズムを同等の割合で描いてどっちつかずになってしまった。その後の社会派小説はリアリズムで統一するのが主流になった。山崎豊子はちょっと特殊で、濃厚なロマンティズムを持ちながらもそれを覆い隠すほど分厚いリアリズムの皮をかぶることで成功した。だから彼女の小説はとても分厚い。「半沢直樹」は逆にリアリズムの皮を薄くすることで成功した。多彩な情報をちりばめているけど、それらに舞台装置以上の意味はない。リアリズムの雰囲気さえ確保できればそれでいいのだ。悪人の行う不正は何でもいい。「水戸黄門」に出てくる悪事が何でもいいのと同じだ。これを演出用語でマクガフィンという。考えてもみたまえ。「水戸黄門」に出てくる悪人がいままでにない複雑巧妙な悪事を働いたらどうなるか。黄門様はそのからくりを暴くために(同時に視聴者に理解してもらうために)何週にもわたって延々と地味な調査を続けなければならない。それはもはや痛快時代劇ではなくなってしまう。
 従来の社会派ドラマは社会問題を解明するものだった。だから問題の説明にたっぷり時間を割き、またその説明を理解しないとストーリーが分からない性質のものだった。だが「ハゲタカ」で発明され「半沢直樹」で完成した新しい方法論はその説明の部分をストーリーから分離してマクガフィンにしてしまうというものだ。これによって従来の社会派ドラマにないスピード感を実現した。そして今の世の中で求められているのはやっぱりスピード感のほうだろう。それは「半沢直樹」の高視聴率が証明している。

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社会派ドラマ円環(2)

 今回もしつこく「半沢直樹」について書いていくよ。前回の記事で、このドラマは黒澤明が果たせなかったリアリズムとロマンティズムの融合を、半世紀のときを経て見事に果たしてしまった、と書いた。どうしてそんなことが出来たのかをこれから明らかにしたい。でもその前に、日本の社会派ドラマの歴史をチェックしていって、「半沢直樹」にいたる流れをふりかえってみよう。
 「半沢直樹」で最も視聴率が高かった瞬間は、最後の最後、半沢が頭取の中野渡をグイッと睨みつけるラストカットだそうだ。俺はなんともニヤリとさせられる粋なラストだと思ってすっかり嬉しくなったんだけど、世間の反応はそうではなかったらしい。ネットで感想を見たら非難ごうごうである。しかし海外ドラマなんかシーズン終わりでこういうオチを持ってくるのは珍しくないし、日本の社会派映画だってバッドエンドで締めくくるのは「悪い奴ほどよく眠る」以来の伝統芸だ。俺があの睨みつけエンドを見て真っ先に思い浮かんだのは映画版「白い巨塔」のラストシーンである。監督は社会派映画の巨匠・山本薩夫だ。
 山本薩夫という人は共産党員であるにもかかわらず弱者を弾圧する側の視点を好んで描きたがる。これは被害者と加害者双方の立場を立体的に捉えようという考えからだろう。しかしなぜか弱者より強者のほうを厚みのある魅力的な人物像に造形してしまうのだ。まあそういう作風だから山崎豊子とは抜群の相性を発揮し、「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」の三本の映画を残した。山本薩夫が亡くなったとき、山崎は「これでわたしの小説を映画化できる人間がいなくなった」とまで言っている。彼女の師匠格である石川達三とも相性がよく、「人間の壁」「傷だらけの山河」「金環蝕」の三本を撮っている。複雑な原作を分かりやすく単純に物語る手腕には定評があり、特に60年代までの諸作はその絶妙なスピード感で見るものを圧倒した。演劇界の実力者で脇を固めてガッチリ芝居をさせる点も大きな特徴といえる。
 1966年に公開された山本監督の「白い巨塔」は脚本が秀逸である。余計な枝葉をバサバサと切り落とすのは当然として、後半の裁判シーンを大胆に改変して東都大学の船尾教授をキーパーソンに持ってくる。この改変はあんまり見事なので2003年のドラマ版でも取り入れられていた。映画版の脚本を担当したのは黒澤作品でおなじみの橋本忍である。この名脚本に応えるかのように、山本監督は後半の裁判シーンを息も付かせぬハイテンポで描いていく。そしてラストの睨みつけエンド。ドラマ版や現行の文庫版に慣れた人には違和感を感じるかもしれないけど、そもそも原作自体が当時はそこで終わっていたので仕方がない。作者本人はこれで完結したつもりでさっさと次の「仮装集団」にとりかかったけど、続編を求める世間の声に負けてしかたなく続きを書いたのだ。続編が刊行されたのは映画の公開から三年後の1969年である。こういう世間の反応も「半沢直樹」を髣髴とさせるね。でもそれに怒ったのか、山崎豊子は次の「華麗なる一族」では続編の書きようのない結末にしちゃったけど。
 70年代に入ると年をとってきたせいか山本薩夫のスピード感は落ちてくる。その代わりこれでもかというほどの豪華キャストをかき集めて、そのアンサンブルで見せるようになる。石川達三の「金環蝕」は出版から十年後の1975年に映画化された。原作小説は汚職のメカニズムそのものを描いた作品であり、膨大な登場人物が玉突きのようにあちこちでぶつかりながらひとつの方向に動いていく。そこには人間の動きがあるだけでドラマはない。しかも登場人物は全員悪人で感情移入できる人間がひとりもいない。そこで山本監督はモデルになった人物とそっくりな扮装をさせ、そのキャラクターをやりすぎなくらい誇張した。それによって映画全体をブラック・コメディにしてしまったのだ。キャラの誇張は黒澤明もやってるけど、それをさらに推し進めてギャグにしている。70年代以降の山本薩夫重厚長大な作風で知られているが、その中で「金環蝕」は、いかにも深刻な題材をあつかいながら不思議と軽くてモタれない作品になっていた。
 ここでちょっと日本の社会派小説の流れについて説明しておこう。前々回の記事とかぶるところもあるけど、大事なことなので二回書く。戦前から戦後にかけての社会小説は長いこと石川達三の独壇場だった。高度成長期に入ると彼の後継者といえる作家が次々と登場した。まず松本清張推理小説に社会性を加味した新しいジャンルを開拓して、それが凄まじいブームを巻き起こす。さらに大阪商人ものを書いていた山崎豊子が、石川達三のメロドラマ性をさらに増幅したような社会小説の大作を書くようになる。この二人はいわば石川達三の精神的な弟子とも言える存在だ。一方、経済学者だった城山三郎は二人とは別のアプローチから、企業社会を舞台にした人間ドラマという新しい手法を発明した。これが後に企業小説とか経済小説とか言われるジャンルに発展する。城山には社会の暗部を暴こうという意識は意外と薄い。それどころか作風がだんだん英雄伝の色彩を帯びていき、それにつれて人気が上がっていった作家である。なんとなく司馬遼太郎に一脈通じるところがある。だから俺なんかは社会派ならぬ会社派小説と呼んでいる。ともあれ社会派推理小説松本清張、社会派メロドラマの山崎豊子、会社派小説の城山三郎、この三人は政財界を舞台にした作品が多く、世間ではひとまとめにくくられることが多い。
 映像の分野に話を戻そう。社会派映画の巨匠が山本薩夫だとすればテレビドラマの世界でそれに匹敵する人物は誰か。NHKの名物ディレクター和田勉だろう。この人はただのダジャレ好きではない。手がけた作品が軒並み賞を受賞したことから、「芸術祭男」の異名を受けたほどの巨匠である。松本清張とのコラボが有名で、彼の原作で実に八本も撮っている(「文五捕物絵図」を除く)。特に70年代の後半はロッキード事件が世の中を騒がせていたせいか、いわゆる政財界の腐敗を扱った社会性の高いものを集中的にドラマ化している。「中央流砂」「棲息分布」「ザ・商社(空の城)」「けものみち」「波の塔」と、八本中五本がそれに当たる。あと城山三郎の企業小説も「堂々たる打算」「価格破壊」「勇者は語らず」と三本撮っている。
 その演出の特徴はなんと言ってもアップの多用だ。およそスペクタクルの期待できないテレビドラマにおいて、和田勉は発想を転換させ、顔を画面いっぱいに大写しすることで役者の顔面をスペクタクルにしてしまったのだ。しかもアップになるほどテンポを上げてゆく。長ゼリフを恐るべき速さでしゃべらせる。力のある役者にこれをやると、画面から異様なエネルギーが放出される。あとアバンギャルドな音の使い方も大きな特徴だ。いちばん有名なのは「阿修羅のごとく」のトルコ軍楽だろう。「けものみち」ではムソルグスキーを使ったりしている。黒澤明の対位法とも違う独特のセンスだ。さすがにこのセンスだけは真似手がいない。
 和田勉の1982年版「けものみち」を見たのはつい最近のことだけど、ラストの処理が原作と違っていた。俺はそのラストを見て思わず「あっ!」と叫んでしまった。これは「悪い奴ほどよく眠る」ではないか。ラストを変えることによって作品全体が「悪い奴ほど」の翻案みたいになっている。和田版「けものみち」の小滝は女を利用して権力者の懐に食い込もうとするが、その女を愛してしまったがために破綻する。これはまさに「悪い奴ほど」の西幸一がたどった道だ。西幸一は公団の総裁に食い込んでいったが、小滝が食い込もうとするのはさらにその上、総裁人事をあやつる政界の黒幕だ。これって「悪い奴ほど」のラストで登場する電話の相手じゃないか? そう考えると原作者は最初から「悪い奴ほど」を意識してこの小説を書いたのかもしれない。松本清張がこの小説の連載を開始したのは「悪い奴ほどよく眠る」の公開から二年後の1962年だ。それで久しぶりに「けものみち」の原作を読んでみた。学生時代にこの小説を読んだときは「わらの女」をどぎつくしただけの作品という印象だった。しかし今回あらためて読んでみると、設定の何もかもが「悪い奴ほど」を意識しているとしか思えなかった。たとえば廃墟めいた茶室が思わせぶりに何度も出てくるけど、これは「悪い奴ほど」の廃工場を髣髴とさせる。
 以下は「けものみち」が「悪い奴ほど」の翻案であると仮定した上での妄想である。そもそも小滝がフィクサーに近づいた目的というのが最後まで不透明である。しかし「悪い奴ほど」を補助線にすると目的が見えてくる。加えて完全犯罪もののセオリーから考えても、フィクサーとその取り巻きが最後に陥った状態こそ小滝の最終目的だろう。動機はフィクサーが九州の炭鉱主時代に起こした殺人。その被害者の息子がおそらく小滝なのだ。そういうロマンティズムの要素を表面上すべて取り去ることで黒澤の失敗を回避したのだろう。原作では女に心を移さなかったので復讐は成就される。清張はおそらく、「悪い奴ほど」の西幸一がいかに苦悩しようと、やってることはスケコマシではないか、ならば徹底しろよ、と言いたかったのだろう。そのラストを変えてオリジナルの「悪い奴ほど」に先祖がえりさせたのが和田勉版なのだ。つまり最後に嘘をつくことで作品にロマンティズムの皮を薄くかぶせたのである。
 山本薩夫が亡くなったのは1983年である。そのあたりから社会派の映画やドラマが作られなくなった。和田勉近松の心中ものなんかに主力を移したりしている。80年代に入ってから、社会問題の告発といった深刻な題材が急に流行らなくなったのだ。したがって映像化にふさわしい原作も書かれなくなった。以後は深刻さの薄い企業情報小説のようなものが主流になる。その代表である城山三郎がブームになるのもこの頃だ。社会派推理小説でデビューした作家は徐々に企業小説へと鞍替えしていった。要は山岡荘八司馬遼太郎を経営の教科書として読むのと同じような読まれ方である。だから教科書を必要としない層はあまり手に取らない。フレデリック・フォーサイスアーサー・ヘイリーの小説が国際情報小説というくくりで読まれるようになったのも同じ流れだろう。その流れが変わるのは二十年ほどたって二十世紀に入ったあたりからだ。

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社会派ドラマ円環

 月日のたつのは早いもので、大ブームになった「半沢直樹」が終わって二ヶ月がたった。この番組が最終回で今世紀最高の視聴率をはじき出した一週間後、社会派小説の巨匠である山崎豊子が亡くなった。なにやらオカルトめいた暗合を感じさせる出来事である。山崎豊子が社会派を代表する存在だっただけに、否が応にも「世代交代」という言葉が思い浮かぶ。
 ご多分にもれず俺も「半沢直樹」にハマったくちだ。あれには何だか妙な中毒性があるんだよなあ。大ヒットの要因は各界の識者がいろいろな分析をしている。よく言われるのが「このドラマは銀行という題材を使った時代劇だ」という意見だ。そういえば演出も歌舞伎のような見得を多用していたし、現役の歌舞伎俳優を二人も投入して大芝居をさせていたし、ナレーションもNHKの歌舞伎中継みたいだった。
 一話ごとの構成は「水戸黄門」を踏襲していて、毎回、悪を懲らしめてエンドとなる。個人的にこのドラマのいちばん画期的な点はここだと思う。本来は長編小説であるはずの原作を五分割して、それぞれを「水戸黄門」のフォーマットに落とし込む。これは思いつきそうで思いつかない発想だ。またそういう事が可能な原作であったのが功を奏したのだろう。小ボス、中ボス、大ボスと順番に敵を倒していくのもゲーム的で楽しい。しかし第二部の東京編は第一部ほどきれいに落とし込めていなかった感じである。俺は原作を読んでいないけど、おそらく第二部の原作自体、第一部とはがらりとパターンを変えた作品だったのだろう。シリーズ小説としては当然の配慮だ。それを同じパターンになるように構成するわけだから、完成度において第一部の大阪編に一歩およばなかったのもやむなしと思われる。
 前回の記事で俺は、山崎豊子を社会派の皮をかぶったメロドラマ作家であると結論付けた。深刻な題材を扱っているにもかかわらず、彼女の小説が幅広い人気を得た理由は本質的にメロドラマだからである。「大地の子」は国をまたいだ「瞼の母」だし、「運命の人」は国家機密が絡んだ不倫ものだ。「華麗なる一族」にいたっては出生の秘密、骨肉の争い、異常な夫婦生活、親の決めた結婚相手といったメロドラマの常套手段がてんこ盛りである。そういう意味では「半沢直樹」も彼女のやり方を踏襲しているといえる。このドラマの本質は痛快娯楽時代劇であり、銀行という題材は単なる舞台装置に過ぎない。「半沢直樹」を山崎豊子の原作と勘違いする人が続出したのも、そういう「皮をかぶった感じ」を視聴者が無意識に察知した結果かもしれない。
 監督の福澤克雄は、かつてキムタク主演の「華麗なる一族」やキムタク主演の「南極大陸」を撮った人である。この二つは俺も見たことがある。両方とも真面目一方で力押しの演出をしてくる作品だった。というか演出が力押し一本やりなので、見てるとだんだん疲れてくるんだよなあ。「華麗なる一族」はストーリーが複雑巧妙かつ波乱万丈なのでまだ見れたけど、「南極大陸」は南極観測隊のエピソード集みたいなドラマなので、演出にバリエーションがないと非常にキツい。見せ場といえば、感動的な音楽が流れ、キムタクが演説を始め、それをアップでえんえんと撮る。一話につき三回はこれが出てくるのだ。アップでえんえん押すところはセルジオ・レオーネみたいだけど、レオーネのようなユーモアがまるでなく、ひたすらしんどかった覚えがある。映画ならいざ知らず、連続ドラマの場合は息抜きの場面を適当にはさまないと長丁場はもたない。コメディの得意な役者が揃っていたのに勿体ないことをしてるなあ、と思ったものだ。
 ところが「半沢直樹」では、まるで別人のように軽快でテンポのいい演出ぶりだった。今まで以上にアップを多用しながらも、役者たちの畳み掛けるような演技によって異様なハイテンションを生み出していた。キャストには知る人ぞ知る実力派を多数投入してガッチリ芝居をさせる。走るシーンや剣道の立ち回りをたくさん入れて躍動感を盛り込む。室内でもカメラワークやカット割りをアクション映画風にして、とにかく作品全体を活劇的な雰囲気でまとめ上げていた。これだけ役者と演出のボルテージが高いと視聴者は疲労困憊してしまう。ところが今回の福澤監督は引くところをちゃんと引いている。がらりと雰囲気を変えた半沢の家庭生活を随所に挿入して適度にクールダウンさせる。ミッチーの飄々としたキャラも熱量を下げる役割を果たしていた。
 監督のインタビューによると、黒澤明の「用心棒」の現代版をやりたかったそうだ。言われてみれば、軽快なテンポや登場人物の過剰なキャラ付けなんかは「用心棒」に一脈通じるところがある。悪役なんかは黒澤以上のオーバーアクションで戯画化されていて、それが一種の軽みにつながっていた。それにしてもレオーネ・タッチの福澤監督が「用心棒」をやるというのは、先祖がえりみたいでなんとなく可笑しい。
 しかし俺は「半沢直樹」を見たとき、「用心棒」よりむしろ「悪い奴ほどよく眠る」の影響のほうが強いと思った。「悪い奴ほどよく眠る」は黒澤明が「用心棒」の前年に撮った現代劇で、汚職をテーマにした社会派映画である。当時はこういう汚職の問題を正面から扱った映画がなく、脚本作りは非常に難航したらしい。この映画が公開された1960年は松本清張がようやく社会派推理小説の方向に歩み始めた時期であり、汚職に関しては「点と線」で少し扱った程度だ。山崎豊子はまだ初期の大阪商人ものを書いていた頃である。こういう題材の語り方が確立していなかった時代なのだ。難産の結果、出来上がったのは「モンテ・クリスト伯」を髣髴とさせる大時代的な復讐物語だった。この古めかしさと汚職の告発という現代的なテーマが上手く噛み合っていなかったせいか、興行は惨敗だったそうだ。
 黒澤明はその後、二本の純粋娯楽時代劇を撮ってから、再び社会派的題材に取り組む。おそらく「天国と地獄」と「赤ひげ」は、「悪い奴ほどよく眠る」の失敗をバネにして生まれた作品だろう。「悪い奴ほどよく眠る」では現代的なリアリズムと大時代的なロマンティズムが無造作に継ぎ合わされてチクハグな感じになってしまった。そこでこの二つの要素を分離させ、現代的なリアリズムで統一した現代劇の「天国と地獄」と、大時代的なロマンティズムで統一した時代劇の「赤ひげ」を作ったのだろう。この二作をもって黒澤流社会派映画は完成する。
 とはいえ、「悪い奴ほどよく眠る」の遺伝子は「半沢直樹」に脈々と受け継がれている。父親を自殺に追いやった悪人に復讐するため、身分を隠して敵の懐に入り込むという設定はまんま「半沢直樹」に踏襲されている。復讐の方法が不正を公表して社会的に抹殺することなのも同じだ。小ボスから順番に尻尾をつかんで懲らしめていくという構成も似ている。痛快な悪人成敗劇として進行していながら、最後の最後でバッドエンドになってしまう点も共通している。おまけに主人公の協力者にノイローゼ気味の気弱な男がいる。どうやら「半沢直樹」は「悪い奴ほどよく眠る」のほとんどリメイクであり、「用心棒」がやりたい云々はカモフラージュにすぎないようだ。そして福澤監督は、黒澤明が果たせなかったリアリズムとロマンティズムの融合を、半世紀のときを経て見事に果たしてしまった。どうしてそんなことが出来たのかは次回で述べる。
 聞くところによると半沢の父親が自殺したという設定は原作にはなく、悪役をもっと悪くしてほしいという堺雅人の注文に応えて監督が付け加えたものらしい。これはつまり既存の原作に新しい設定をひとつ加えただけで作品全体が化学変化を起こし、「悪い奴ほど」の復讐成就版みたいになってしまったという事である。しかも監督にそのような意図はまったくなかった。まるで奇跡のような話だが、黒澤ファンの福澤監督が無意識のうちに「悪い奴ほど」との共通点を見抜いたがためにこの原作を選んだ、と考えれば納得がいく。堺雅人の注文によって潜在意識の願望が顕在化し、積極的に化学変化を起こす方向に向かったのだろう。詳しくは次回で述べるが「悪い奴ほど」には隠れリメイクといえる作品がほかにもある。それだけ後輩たちが何とかしたくなるほどパワーのある作品だったということだ。
 以下は蛇足。「悪い奴ほどよく眠る」に関しては黒澤明自身も「無理なんだよ、話が」とストーリーの不自然さを認める発言をしている。そうなった原因について黒澤監督は、汚職のメカニズムを「直接やったら会社はやらせない」から「遠まわしに言わなきゃならなかった」と弁解している。これには公開時期が60年安保の年だったことも関係していると思う。物情騒然とした折から、東宝としても政府批判につながるような作品は許可できなかったのだろう。監督も「つくりながら隔靴掻痒の感があった」と言っている。その欠落を埋めるための「モンテ・クリスト伯」なのだろう。実際、「巌窟王をずいぶんみんなで研究した」「それが下敷きになっているといってもいいぐらい」だという。俺なんかどうしてそこで「巌窟王」なんだと思ってしまう。しかも次に撮った娯楽時代劇の下敷きは「血の収穫」だ。普通に考えると下敷きにすべき作品が逆なような気がするけど、それだとありきたりすぎて面白くないんだろうな。たしかに「用心棒」のほうは黒澤明を代表するような傑作になったわけだし。
 ところで「悪い奴ほどよく眠る」の公開から五年後の1965年に九頭竜川ダム汚職事件というのが表面化し、国会で問題になった。事件そのものはうやむやに終わったのだが、翌年には早くもこれをモデルにした小説が刊行される。石川達三の「金環蝕」である。国会の議事録を綿密に読み込んで事件を再構成した一種のドキュメント・ノベルで、関係者をして「書いてあることの八割はほんとう」とまで言わしめた作品である。そしてこの小説は、黒澤明が描こうとして果たせなかったかった「汚職のメカニズム」を、そのものズバリ、身も蓋もなく無造作にさらけ出してしまった。発表されたのがちょうど60年安保と70年安保の谷間の時期ということも関係しているかもしれない。あるいは映画会社と出版社の違いと言ってしまえばそれまでかもしれない。しかしたった五年でこういうものを出されてしまうと、本当に黒澤明の苦労した甲斐がなくなっちゃうよなあ。

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やまロス症候群の処方箋

 山崎豊子が亡くなって一ヶ月がたった。ものごころ付いたときから、この人の作品はくり返しドラマ化されていた。特に改変期のスペシャル・ドラマなんか、彼女と松本清張有吉佐和子のローテーションで成り立っていたといって過言ではない。「女系家族」や「三婆」なんて何回見たか分からない。そんなドラマ原作御三家の最後の生き残りだった人だ。
 山崎豊子が亡くなった時期というのは、ちょうど「半沢直樹」が最終回で今世紀最高の視聴率を記録した一週間後だ。「半沢直樹」が今までにないタイプの社会派ドラマだっただけに、否が応にも「ひとつの時代の終わり」を感じさせた。有吉佐和子が死後ゆるやかに忘れられていったのと同様、この人もこれから徐々に忘れ去られていくのだろうか。
 そういえば「半沢直樹」と同時期に朝ドラの「あまちゃん」も大人気になっていて、番組が終わったら心にぽっかり穴が開いたような状態になる人が続出したらしい。これを「あまロス症候群」というのだそうだ。山崎豊子が亡くなった今、似たような状態になっている「やまロス症候群」の人もたくさんいると思う。そういう人たちのために、山崎豊子みたいな小説をいくつか紹介しよう。今でこそ彼女のような小説を書く人はなかなかいないかもしれないが、過去にさかのぼれば同じカテゴリーの作家はけっこう見つかる。
 山崎豊子のエッセイ集「山崎豊子 自作を語る」を読むと、彼女が石川達三を社会小説の先輩としてお手本にしていたことがよく分かる。世間の認識もそうだったらしく、「白い巨塔」が世に出たとき、マスコミは彼女を「おんな石川達三」と名づけたそうだ。同書には松本清張との対談が載っており、清張が「石川さんの弟子にして下さいといった」ことがあると告白したら、山崎も「石川先生のところに通おうと思った」と応えている。つまり松本清張山崎豊子の師匠格ともいえる作家なのだ。今でこそ完全に忘れられた存在になっているが、昔はベストセラーを連発していて、そのタイトルがことごとく流行語になるほどの人気作家だった。第一回の芥川賞受賞者だからキャリアは古い。プロレタリア文学イデオロギー性から脱却して、現代的な社会小説のスタイルを確立したパイオニアとも言える重要人物なのだ。
 そこで山崎ファンにおすすめしたいのが「人間の壁」だ。これは佐賀県日教組弾圧(佐教組事件)をモデルにした大作である。かつて山崎は教育をテーマにした小説を構想したことがあるが、この作品を越えることが出来ないと判断して執筆を断念したという。彼女にとってついに「越えられぬ壁」となった作品である。しかしながら大阪商人の娘である山崎豊子は転んでもタダでは起きない。組合への弾圧というモチーフはのちの「沈まぬ太陽」にきっちり取り入れられている。
 石川達三からもうひとつ、「傷だらけの山河」も紹介したい。これは西武グループの創業者である堤康次郎をモデルにした小説で、特に「華麗なる一族」ファンは必読の書である。物語は父親のあくなき事業欲によって息子が犠牲になるという、どこかで聞いたような話だ。しかも主人公は冷酷な事業家であると同時に異常な好色漢という二面性をもっている。これは明らかに万俵大介のキャラ造形に影響を与えた作品でしょう。
 石川達三はこの辺にして、ライバルの松本清張からも一作挙げよう。なにしろ彼は石川達三を介した精神的な兄弟子ともいえる存在だ。「不毛地帯」の連載が完結したのとほぼ同時期に、清張も同じく商社を舞台にした作品を発表した。安宅産業破綻をモデルにした「空の城」である。これは凄いぞ。あの山崎豊子が「食いつくように読ん」で「参った」「さすが松本清張」と言わしめた作品だ。しかも「不毛地帯」の最後は油田開発の話だったけど、「空の城」は油田経営からその破綻にいたる物語だ。ちなみに破綻後の安宅産業は伊藤忠商事(近畿商事のモデル)に吸収合併された。このように両者はなんとなくリンクしているのである。
 続いて海外の小説にいってみよう。五年くらい前に「山崎豊子アメリカン・ベストセラー」という評論を書いて同人誌に発表したことがある。欧米の出版界には社会派メロドラマと呼ばれるカテゴリーがあり、それらの作品群は山崎豊子の小説とそっくりである、という趣旨の論文だ。社会派メロドラマとは、簡単に言えば、社会問題の分析をメロドラマ的手法で小説化したものである。チャールズ・ディケンズのパノラマ的社会小説に始まり、アメリカでは「アンクル・トムの小屋」から定着したジャンルである。1960年代に入ったあたりから、企業社会を舞台にした現代的な作風の作家が次々と登場して一大潮流を作り上げた。奇しくも同じ頃、日本でも松本清張山崎豊子が社会派的な作風に方向転換してブームを巻き起こしている。
 社会派メロドラマの代表はなんといってもハロルド・ロビンズだろう。wikipedia:ベストセラー作家の一覧によると、この人は世界で7億5千万部も売り上げたという化け物である。彼の小説は濡れ場が多く、いかにもアメリカ大衆小説といった作風だ。しいていえば山崎豊子梶山季之のサービス精神を加えた感じか。おすすめは、デトロイトの自動車業界を舞台に企業内部の権力闘争を描いた「ベッツィー」という作品だ。これまた「華麗なる一族」にそっくりなのだ。祖父である会長と孫である社長の対立が物語の中心になっていて、その背景には三代にわたる一族の愛憎劇が隠されている。回想シーンでは何と祖父が息子の嫁に手をつけるエピソードが出てくるのだ。
 映画で有名なマリオ・プーヅォの「ゴッドファーザー」は犯罪小説に社会派メロドラマの手法を持ち込んだ珍しい作品だ。マフィアを家族経営の企業に見立て、その経営ノウハウや後継者問題を描いている。小林信彦のユーモア小説「唐獅子株式会社」に、「ゴッドファーザー」を大阪の漬け物屋の話に作り変えるというギャグが出てくるけど、そういう翻案が可能なのは本質的にメロドラマだからである。初期の船場ものファンにおすすめ。
 山崎豊子は一時期、日本のアーサー・ヘイリーと呼ばれていたことがある。アーサー・ヘイリーもまた社会派メロドラマの中心的作家だ。日本では情報小説のような読まれ方をしていたけど、本質的には男女の愛欲や野心家の転落といったプロットを好んで書くメロドラマ作家だ。ここでは銀行を舞台にした「マネーチェンジャーズ」を挙げておこう。次期頭取の座をねらう二人の副頭取による権力闘争を軸に、クレジット・カード偽造団の暗躍など多彩なエピソードを絡ませる。対照的な二人の対立劇というのは山崎作品でもおなじみのパターンだ。
 対立劇といえばジェフリー・アーチャーのあれを忘れてはいけない。「ケインとアベル」は、生まれも育ちも対照的な大物銀行家とホテル王による、半世紀にもわたる対立を描いた名作である。後半では子供同士が恋に落ちてしまい、ロミオとジュリエット状態になるのだ。お前らは壱岐と鮫島か。この小説が出版されたのは1979年だから、欧米の社会派メロドラマのムーブメントがかなり下火になってきた頃である。代わって「将軍」とか「戦争の嵐」といった歴史ものが流行し始める。若者はモダンホラーに流れていった。
 日本でも社会派的な深刻さはしだいに敬遠されるようになり、物語性の薄い企業情報小説のようなものが中年男性にのみ読まれるようになる。山崎豊子の小説作法は、そういった企業情報小説とは似て非なるものである。はじめに人物設定を作り、ストーリーを組み立て、その後でそれに合う舞台(モデル)を探す。彼女の小説がしばしばモデル問題で物議をかもし、善人といえない人物を善人に設定していると非難されるのは、こういう作り方をしている以上、仕方のないことかもしれない。つまり山崎作品は業界ものの皮をかぶったメロドラマであり、かぶった皮が恐ろしく分厚いために多くの人が勘違いしているだけなのだ。おそらくそういう書き方のせいで、偶然にも欧米の社会派メロドラマに接近してしまったのだろう。しかも作品の分量といい発表頻度といい完全に欧米作家のやりかたで書いているからね、この人は。
 今回の記事で紹介した作家たちはジェフリー・アーチャーを除いてみんなお亡くなりになっている。そして亡くなった途端、絶版になっていくのが大衆小説の宿命である。死後二十年もたってまだ版を重ねている松本清張が異常なのだ。これだけの作品を紹介しても、現時点で手に入るのは下にある画像だけである。しかし図書館や古本屋を回ればまだまだ見つかるはずだ。現在、山崎豊子の遺作「約束の海」が週刊新潮で連載中である。それが終われば、もう本当に彼女の新作は読めなくなる。だからといって嘆くことはない。山崎豊子には石川達三という師匠がいて、松本清張という兄弟子がいて、そして欧米にはたくさんの同志がいた。掘れども尽きぬ鉱脈が地下に眠っているのだ。
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ギャグ密度

 前回は小林信彦のマネをして体験的ユーモア小説論なるものを書いてみたが、どうも小林先生ほど上手く書けない。理由は分かっている。体験をふまえて書くといっておきながら、小林信彦の史観に引きずられて、「北杜夫における精神的スラップスティック」という借り物のキーワードで話を進めようとしてたからだ。だいたい自分の中で北杜夫はそれほど大きな位置を占めているわけではないのだ。そこで今回は北杜夫中心史観をアッサリ捨てて、自分の書きやすいやり方で書かせてもらう。
 北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」を読んだのは高校時代だ。読むものがなかったので姉貴の本棚をあさっていたら、隅っこのほうに埃をかぶった新潮文庫版の「航海記」を見つけた。この本がむかし若者の間で大ブームとなったユーモア・エッセイであることは知識としてあったので、早速ちょろまかして読んでみた。まあ確かに面白かったけど、この手のユーモア旅行記はそれこそ今に至るまで山のように出版され続けている。当時の読者が感じたような新鮮な驚きを追体験できるわけなく、完全に知識の確認にとどまる読書だった。前回さんざんあおっといて申し訳ないが、これはもうめぐり合わせの問題なので仕方がない。
 たとえば名作の誉れ高いジョン・フォードの「駅馬車」という映画がある。クライマックスのインディアン襲撃場面が凄まじい迫力で当時の観客にショックを与えたといわれている。ところが今見てみると全く大したことがないのだ。なぜならアクション映画というものはその後どんどん発展しているからだ。その発展したものを見慣れている人間に、当時の観客と同じ感動を味わえといわれても無理な相談なのだ。
 さて、「どくとるマンボウ」から十年後の1970年に井上ひさしが「モッキンポット師の後始末」の連載を開始する。このあたりの作家から俺の同時代人という感じになってくる。井上ひさしと前後して筒井康隆小林信彦も登場し、70年代サブカル青年のスターになってゆく。厳密に言えば俺よりひと世代前のお兄さんの愛読書なんだけど、なぜか俺は早くからこの人たちに馴染んでしまった。そのへんの事情は前回書いた通りだ。幼少期の刷り込みもあって、この三人が俺のユーモア感覚のベースになっているようだ。
 今回の記事を書くに当たって「モッキンポット師」を読み返してみたら、特に第一話の密度の濃さに圧倒された。とにかくエピソードの数が多いのだ。文庫版で43ページなんだけど、最初の4ページで立て続けに四つの失敗談が語られる。その後で舞台設定と人物紹介が4ページほど語られるので、残りの35ページが本編となる。その本編は四つのエピソードで構成されている。一エピソード平均9ページ弱である。パターンは毎回同じで、主人公の大学生がアヤシゲなアルバイトに手を出しては失敗して恩師に尻拭いをしてもらう、というものだ。これは完全にTVのバラエティ番組の感覚だな、と思った。短いコントを並列的に並べてゆき、規定の枚数に達したらそこで終わり、という感じなのだ。いかにも放送作家出身の井上らしい書き方である。
 あと井上ひさしの凄いところは地の文の新しい活用法を発明したことである。この小説をコント台本と仮定した場合、コント上に出てくるギャグのパターンはあんがい古典的である。しかし地の文をにぎやかに飾り立てることで細かい笑いを連鎖させて、客が温まった状態を作り上げる。だから古典的なギャグでも笑いが取れるのだ。こういう書き方は小説の世界では真似手がいない。むしろ井上流の「地の文で言葉遊びを駆使した形容詞を並べ立てて笑いを取る」手法は、東海林さだお椎名誠を筆頭にしたユーモア・エッセイの方面に受け継がれているように思う。
 密度の濃さでいったら小林信彦も負けていない。井上ひさしと机を並べてバラエティ番組の台本を書いていた小林は、1977年にギャグ密度の限界に挑んだような小説の連載を開始する。それが「唐獅子株式会社」である。この作品の方法論は作者自身が詳しく解説している。すなわち「筋の細部や落ちを前もって作らずに、想像力に連鎖反応をおこさせ、短距離の暴走をさせることによって、結果として一つの物語」を作るというものだ。簡単に言えば、最初の設定からギャグをどんどん派生させていって、規定の枚数に達したらそこで終わる、という感じだ。だから会話主体で地の文が少ない。情景描写なんか限りなくゼロに近い。ほとんどギャグの羅列のみで成立しているような小説なのだ。それでいて、わりと複雑なストーリーをきちんと展開しているのも凄い。
 もっとも小林ギャグの基本は時事風俗のパロディなので、リアルタイムで読むと爆発的な面白さである代わりに、旬をすぎると急に古くなるという欠点を持っている。文庫版の解説は盟友の筒井康隆が担当していて、それが作中のギャグを逐一注釈するというものだった。当時としては野暮のきわみ(というギャグ)だったけど、今となってはそれが必需品になってしまっているのが面白い。「定年なし、打つ手なし」の中で小林は「ギャグに注釈が必要になってくると作品の生命は終わりだ」というようなことを書いているが、同世代の作家で最も早くそんな状態になってしまったのは皮肉である。とはいえある種の極限に達している小説なのは間違いないので、その超絶技巧ぶりを味わうぶんには今でも十分楽しめると思う。
 しかしながら世の中は広い。上には上がいるのである。奇しくも「唐獅子株式会社」の連載が開始された1977年にこれを上回るギャグ密度を持った作品が発表された。ハチャハチャSF作家横田順彌の「脱線!たいむましん奇譚」である。ハチャハチャSFとはなにか? メチャクチャの上をいくのがメチャメチャ、その上をいくのがハチャメチャ、さらにその上をいくのがハチャハチャという事らしい。この人は筒井康隆の下のSF第二世代といわれた作家である。SF以外でいうと80年代を席巻した赤川次郎と同期だそうだ。
 横田順彌の小説はとにかくダジャレのオンパレードで、そこに下ネタ、メタ発言、主人公いじめといった低俗なギャグを織り交ぜる。それらを一行単位で脈絡もなく入れてくるのだ。完全に質より量で勝負している。「唐獅子株式会社」がギャグ密度の限界に達した小説なら、横田のハチャハチャSFは限界を超えてしまった小説といえるだろう。そして限界を超えるとどうなるかというと、小説としては完全に破綻してしまうのだ。とにかく読んで驚けとしか言いようがない。「脱線!たいむましん奇譚」の冒頭部分がここで読める。
http://www.ebunko.ne.jp/dassent.htm
 最後に日本のユーモア小説家の系譜をまとめてみよう。
明治:夏目漱石→大正・昭和:佐々木邦獅子文六)→50年代:源氏鶏太→60年代:北杜夫遠藤周作)→70年代:井上ひさし小林信彦筒井康隆)→80年代:赤川次郎横田順彌)→90年代:清水義範
 おっと、清水義範から先を書こうとしてハタと筆が止まってしまった。どうも清水義範以降はこれはというユーモア小説家が出てきていないように思う。90年代にはユーモア・ヤクザ小説でブレイクした浅田次郎もいるけど、この人は早々と人情ものに主力を移してしまったしなあ。もちろん00年代に入ってからも、ユーモア小説で直木賞受賞の快挙を成し遂げた奥田英朗とか、アメリカほら話の系統を受け継ぐ万城目学の名前も浮かんだんだけど、この人たちだって質はともかく量の面で先人たちに劣る。奥田英朗の主力はサスペンス小説であり、めぼしいユーモア小説は伊良部シリーズぐらいしかない。そして万城目学はひどい寡作である。
 いつか続きを書くときのために、清水義範以後の欄は保留にしておくか。
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