Qの方程式

 恥ずかしながら今頃になってようやく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見た。いや、ネットで悪い評判しか聞かないから怖くて見れなかったんだよ。でも先週、図書館に行ったらDVDのコーナーにQを発見したので思わず借りてしまった。劇場公開から二年近くたってやっとこさ観賞したんだけど、やっぱりイマイチ面白くなかったなあ。なんだか退屈でかったるくて。前作の破はあんなに面白かったのに・・・・
 前作の破にはすっかり度肝を抜かれた。アクションの連続であきさせないし、そのアクションもテレビ版よりグレードアップされていて見ごたえがあった。ただ前半のドラマがちょっと弱いと思った。前半でシンジとアスカに絆ができる様子をしっかり見せておかないと後半が生きてこないからだ。トウジとの殴り殴られ、「笑えばいいと思うよ」からの笑顔といった分かりやすいターニングポイントがなく、いつの間にか学園エヴァ的ラブコメ展開になってしまう。しかも破ではシンジとアスカの共同作戦は一回のみ。選ばれたのは「奇跡の価値は」のサハクィエル戦だった。おそらくアクション重視の観点から選ばれたのだろう。確かにあのシーンの視覚的快楽はドラマの弱さを吹き飛ばすぐらい凄かったけど、あのエピソードはゲンドウとのターニングポイントなんだよなあ。
 Qのアクションはどうだったかというと、確かにCGを駆使してぐるぐる回るカメラワークを実現するなど意欲的だった。しかしこれが視覚的快楽において効果を上げているかといえばそうでもない。あまりにもカメラをぶん回しすぎて被写体に何が起きているのか非常に分かりにくいのだ。状況の把握に神経を使うあまり、前作ほどのめり込むことができなかった。しかしQがイマイチなのはそれが原因ではない。内容が薄いからである。構成としては最初にアクションが連続するシークエンスをたっぷり二十分見せる。最後にエヴァ同士の戦闘を二十分間にわたって繰り広げる。そのあいだの五十分をドラマでつなげるという感じになっている。このドラマ部分がスカスカなのだ。新設定が大量に出てきて時間が足りないぐらいだ、と思う人もいるだろうが、それは違う。あの映画は逆に時間を相当もてあましている。どうしてそう言い切れるのかを説明するには、おれが始めてエヴァを見たときのことから語り始める必要がある。
 おれとエヴァとの出会いは1997年にさかのぼる。そう、旧劇場版が公開された年だ。当時のおれは大学のサークルで自主映画なんぞを作っていた。その日は友達の家で昼からロケを始めて、深夜にようやく撮影を終えた。終電もなくなったのでそのまま始発が動く時間まで酒盛りを始めた。するとスタッフの一人がおもむろにテレビをつけて「エヴァがやってる、エヴァがやってる」と騒ぎ始めたのだ。聞けば劇場版が公開されるのでテレビシリーズをまとめて放送しているのだという。たちまちおれ以外のスタッフやキャストが盛り上がった。みんなそのアニメを見ていたのだ。流行っているとは聞いていたけど、まさかここまでとは思わなかった。おれは動揺しながらも、みんなについてこうと必死で画面に集中した。
 運の悪いことに、その日やってたのはテレビシリーズの終わり三話だった。素晴らしいビジュアルセンスだとは思ったけど、内容が何ひとつ理解できない。「これはどういう意味なの?」と聞いても、みんな嬉しそうに「分からん分からん」というだけだった。見てるくせに分からないはずないだろ、と思ったけど、このときはまだエヴァンゲリオンというのはそういう作品なんだということを知らなかった。これがおれのエヴァ初体験である。
 放送中に何度も劇場版のCMが流れてたけど、これもなかなか斬新なCMだった。ヴェルディの「怒りの日」をバックに映像、活字、イラストが凄いスピードで切り替わるというものだ。ただ、この手法は「時計じかけのオレンジ」の予告をヒントにしてるな、ということは分かった。劇場版のタイトルは「シト新生」というこれまた一風変わったものだった。シトというのは使徒のことで、エヴァ世界における敵の呼び名なんだそうだ。このときは「へえ」と思っただけだったが、それから半年後、劇場版第二弾の「Air/まごころを、君に」を見るにいたってようやくその真意に気がついた。テレビシリーズでさんざん「使徒使徒」と言ってたんだから、「シト新生」というタイトルを見れば誰だって「使徒(が)新生(する)」と思うに決まっている。ところが劇場版で描いていたのは「(人類の)死と新生」だった。つまりシトというカタカナ表記は観客のミスリードを誘うトリックだったのである。これに気付いたとき、監督の庵野秀明という人はトリック好きのいたずら者なんだなあ、と思った。
 ここからが本題なんだけど、その時おれが作ってた自主映画はラブコメだった。ラブコメといっても皆さんが想像するような惚れた腫れたの物語とは少し違って、暴走した人間たちの激突を描いたブラックな作品である。そもそもは「お宝の取り合い」をやりたかったのだ。いろいろ考えてるうちに「お宝」を「人間」でやってみてはどうか、というアイディアを思いついた。「人間の取り合い」というのはつまり恋愛だ。恋愛模様をあたかもお宝の取り合いのように描けば面白いんじゃないか。そこで最初に、いくつかあるお宝の取り合いものに共通するプロットを抽出する作業をしてみた。徒手空拳の主人公が知恵と勇気を駆使して難攻不落の要塞に攻め込み、みごとお宝を奪い取る。しかしお宝を奪われたと知った敵は、豊富な人員を投入して主人公を追いかける。だいたいこれが基本である。このプロットに恋愛ものの設定をかぶせればいい。
 主人公は名もなく貧しい女の子で、悲惨な境遇から必死で這い上がろうとするハングリー精神のもち主。敵は財閥のお嬢様で大勢の人間を手足のように動かすことができるワガママ娘。問題はお宝をどうするかだけど、いろいろ悩んだ末、二人のあいだを行ったりきたりするのに何の疑問も持たないような、およそ主体性のない中身カラッポの男にした。そんな人間がいるわけないんだけど、強引にそう設定することでもの凄くインパクトのあるキャラになった。この設定で上記のプロットを動かしてみたら妙な化学反応を起こして、非常にヘンテコでバカバカしくもエネルギッシュな作品に仕上がった。上映会でもバカウケだった。
 なぜ長々とこんな話をするかというと、Qで庵野監督がやったのはこれと全く同じことだからである。つまりある物語から骨組みとなるプロットを抽出して、それに別の設定をかぶせることで新たな化学反応を起こす、というやり方である。同様の手法を用いた作品としては、古典的な怪盗対名探偵の骨組みにプロのスナイパーによる要人暗殺という現代的な設定をかぶせた「ジャッカルの日」、世界の英雄伝説に共通するプロットを抽出したものにスペースオペラの設定をかぶせた「スターウォーズ」がある。おれは経験者だからQを見たとたんに分かったぜ。
 今回のQでは新設定がいろいろ出てきて新たなストーリーが展開しているように見えるけど、冷静に考えてみてくれ。エヴァ世界において設定に何の意味もないことはこれまでさんざん思い知らされてきたじゃないか。「アダムだよ」のセリフを「ネブカドネザルの鍵だ」と機械的に入れ替えても何の支障もないのだから。庵野監督の考え方はこうである。「完全武装の要塞都市に次々と怪獣が攻めて来るって面白くね?」「なんで怪獣がそこばっかり攻めてくるんだよ」「知らないよ、なんか怪獣を引き寄せるものが地下に眠ってるんじゃない? そんなことより見てよ、ビルだと思ったらパカッと開いて中からマシンガンが出てくるんだぜ」一事が万事この調子である。
 つまりエヴァ世界における設定というのは完全にマクガフィンであり、すべてが後付けのこじつけなのだ。本来マクガフィンというものは無意味であることを観客に悟られないようになるべく説得力のある設定にするものだが、エヴァ世界においてはあからさまに抽象的でリアリティのない設定をことさら目立つように並べ立てる。たとえば「怪獣を引き寄せるもの」を設定するとき、考えられる候補の中から最もありそうにない「磔にされた巨人」を採用する。この逆転の発想こそ庵野監督最大の発明といえる。あまりにも意味が分からないもんだから、観客は納得のいく説明を求めたがる。しかし物語は謎を解明する方向には決して向かわない。謎めいた設定の数々は単にアクションを発生させる装置に過ぎず、そこを掘り下げたって何も生まれないからだ。
 ではQで大量に出てきた新設定をぜんぶ取っ払って骨組みを露出させると何が出てくるか。勘のいい読者はもうお分かりと思うが、テレビシリーズ第弐拾四話「最後のシ者」である。そう、この映画はテレビ版を離れて新たな展開を見せているようで、実は全く離れていなかったのである。次回はいかにQが「最後のシ者」を換骨奪胎しているかを具体的に説明しよう。

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