ギャグ密度

 前回は小林信彦のマネをして体験的ユーモア小説論なるものを書いてみたが、どうも小林先生ほど上手く書けない。理由は分かっている。体験をふまえて書くといっておきながら、小林信彦の史観に引きずられて、「北杜夫における精神的スラップスティック」という借り物のキーワードで話を進めようとしてたからだ。だいたい自分の中で北杜夫はそれほど大きな位置を占めているわけではないのだ。そこで今回は北杜夫中心史観をアッサリ捨てて、自分の書きやすいやり方で書かせてもらう。
 北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」を読んだのは高校時代だ。読むものがなかったので姉貴の本棚をあさっていたら、隅っこのほうに埃をかぶった新潮文庫版の「航海記」を見つけた。この本がむかし若者の間で大ブームとなったユーモア・エッセイであることは知識としてあったので、早速ちょろまかして読んでみた。まあ確かに面白かったけど、この手のユーモア旅行記はそれこそ今に至るまで山のように出版され続けている。当時の読者が感じたような新鮮な驚きを追体験できるわけなく、完全に知識の確認にとどまる読書だった。前回さんざんあおっといて申し訳ないが、これはもうめぐり合わせの問題なので仕方がない。
 たとえば名作の誉れ高いジョン・フォードの「駅馬車」という映画がある。クライマックスのインディアン襲撃場面が凄まじい迫力で当時の観客にショックを与えたといわれている。ところが今見てみると全く大したことがないのだ。なぜならアクション映画というものはその後どんどん発展しているからだ。その発展したものを見慣れている人間に、当時の観客と同じ感動を味わえといわれても無理な相談なのだ。
 さて、「どくとるマンボウ」から十年後の1970年に井上ひさしが「モッキンポット師の後始末」の連載を開始する。このあたりの作家から俺の同時代人という感じになってくる。井上ひさしと前後して筒井康隆小林信彦も登場し、70年代サブカル青年のスターになってゆく。厳密に言えば俺よりひと世代前のお兄さんの愛読書なんだけど、なぜか俺は早くからこの人たちに馴染んでしまった。そのへんの事情は前回書いた通りだ。幼少期の刷り込みもあって、この三人が俺のユーモア感覚のベースになっているようだ。
 今回の記事を書くに当たって「モッキンポット師」を読み返してみたら、特に第一話の密度の濃さに圧倒された。とにかくエピソードの数が多いのだ。文庫版で43ページなんだけど、最初の4ページで立て続けに四つの失敗談が語られる。その後で舞台設定と人物紹介が4ページほど語られるので、残りの35ページが本編となる。その本編は四つのエピソードで構成されている。一エピソード平均9ページ弱である。パターンは毎回同じで、主人公の大学生がアヤシゲなアルバイトに手を出しては失敗して恩師に尻拭いをしてもらう、というものだ。これは完全にTVのバラエティ番組の感覚だな、と思った。短いコントを並列的に並べてゆき、規定の枚数に達したらそこで終わり、という感じなのだ。いかにも放送作家出身の井上らしい書き方である。
 あと井上ひさしの凄いところは地の文の新しい活用法を発明したことである。この小説をコント台本と仮定した場合、コント上に出てくるギャグのパターンはあんがい古典的である。しかし地の文をにぎやかに飾り立てることで細かい笑いを連鎖させて、客が温まった状態を作り上げる。だから古典的なギャグでも笑いが取れるのだ。こういう書き方は小説の世界では真似手がいない。むしろ井上流の「地の文で言葉遊びを駆使した形容詞を並べ立てて笑いを取る」手法は、東海林さだお椎名誠を筆頭にしたユーモア・エッセイの方面に受け継がれているように思う。
 密度の濃さでいったら小林信彦も負けていない。井上ひさしと机を並べてバラエティ番組の台本を書いていた小林は、1977年にギャグ密度の限界に挑んだような小説の連載を開始する。それが「唐獅子株式会社」である。この作品の方法論は作者自身が詳しく解説している。すなわち「筋の細部や落ちを前もって作らずに、想像力に連鎖反応をおこさせ、短距離の暴走をさせることによって、結果として一つの物語」を作るというものだ。簡単に言えば、最初の設定からギャグをどんどん派生させていって、規定の枚数に達したらそこで終わる、という感じだ。だから会話主体で地の文が少ない。情景描写なんか限りなくゼロに近い。ほとんどギャグの羅列のみで成立しているような小説なのだ。それでいて、わりと複雑なストーリーをきちんと展開しているのも凄い。
 もっとも小林ギャグの基本は時事風俗のパロディなので、リアルタイムで読むと爆発的な面白さである代わりに、旬をすぎると急に古くなるという欠点を持っている。文庫版の解説は盟友の筒井康隆が担当していて、それが作中のギャグを逐一注釈するというものだった。当時としては野暮のきわみ(というギャグ)だったけど、今となってはそれが必需品になってしまっているのが面白い。「定年なし、打つ手なし」の中で小林は「ギャグに注釈が必要になってくると作品の生命は終わりだ」というようなことを書いているが、同世代の作家で最も早くそんな状態になってしまったのは皮肉である。とはいえある種の極限に達している小説なのは間違いないので、その超絶技巧ぶりを味わうぶんには今でも十分楽しめると思う。
 しかしながら世の中は広い。上には上がいるのである。奇しくも「唐獅子株式会社」の連載が開始された1977年にこれを上回るギャグ密度を持った作品が発表された。ハチャハチャSF作家横田順彌の「脱線!たいむましん奇譚」である。ハチャハチャSFとはなにか? メチャクチャの上をいくのがメチャメチャ、その上をいくのがハチャメチャ、さらにその上をいくのがハチャハチャという事らしい。この人は筒井康隆の下のSF第二世代といわれた作家である。SF以外でいうと80年代を席巻した赤川次郎と同期だそうだ。
 横田順彌の小説はとにかくダジャレのオンパレードで、そこに下ネタ、メタ発言、主人公いじめといった低俗なギャグを織り交ぜる。それらを一行単位で脈絡もなく入れてくるのだ。完全に質より量で勝負している。「唐獅子株式会社」がギャグ密度の限界に達した小説なら、横田のハチャハチャSFは限界を超えてしまった小説といえるだろう。そして限界を超えるとどうなるかというと、小説としては完全に破綻してしまうのだ。とにかく読んで驚けとしか言いようがない。「脱線!たいむましん奇譚」の冒頭部分がここで読める。
http://www.ebunko.ne.jp/dassent.htm
 最後に日本のユーモア小説家の系譜をまとめてみよう。
明治:夏目漱石→大正・昭和:佐々木邦獅子文六)→50年代:源氏鶏太→60年代:北杜夫遠藤周作)→70年代:井上ひさし小林信彦筒井康隆)→80年代:赤川次郎横田順彌)→90年代:清水義範
 おっと、清水義範から先を書こうとしてハタと筆が止まってしまった。どうも清水義範以降はこれはというユーモア小説家が出てきていないように思う。90年代にはユーモア・ヤクザ小説でブレイクした浅田次郎もいるけど、この人は早々と人情ものに主力を移してしまったしなあ。もちろん00年代に入ってからも、ユーモア小説で直木賞受賞の快挙を成し遂げた奥田英朗とか、アメリカほら話の系統を受け継ぐ万城目学の名前も浮かんだんだけど、この人たちだって質はともかく量の面で先人たちに劣る。奥田英朗の主力はサスペンス小説であり、めぼしいユーモア小説は伊良部シリーズぐらいしかない。そして万城目学はひどい寡作である。
 いつか続きを書くときのために、清水義範以後の欄は保留にしておくか。
どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)  駅馬車 [DVD]  モッキンポット師の後始末 (講談社文庫)  唐獅子株式会社 (新潮文庫)