無間地獄系日本映画

 石原裕次郎の十七回忌の時に映画「黒部の太陽」の特別上映があった。5年くらい前だ。招待券が当たったので見に行ったが、今となってはどんな話だったか思い出せない。なんだかひたすら穴を掘っては水に流される映画だった。俺の印象では上映時間の半分は穴を掘っていた。でもその描写は凄かった。実物大のセットに大量の水を流し込み、本当に役者が流されていた。掘っては流されを延々くり返していた。強烈すぎてそれ以外のことが頭に残っていない。
 昨日、一昨日とフジテレビでドラマ版の「黒部の太陽」をやっていた。こちらはお話重視という感じだ。それを見てようやくストーリーを再確認できた。そうだ、白血病の話だった。
 実際ドラマはスペクタクルの面でどうしても映画に見劣りするので、お話の部分を充実させるしかない。今回のドラマも穴掘り描写は案外少なく、関係者のエピソードを丹念に追いかける作りになっている。映画は現場作業員の苦闘がメインに描かれていたが、ドラマはそれと同時に関西電力幹部の交渉や根回しをかなり描いている。脚本は誰かと思ったら、ドラマ版「クライマーズ・ハイ」の大森寿美男じゃないか。さすがにガッチリしてるなあ。
 「クライマーズ・ハイ」は話を広げないほうが良かったが、今回は話を広げたのが良かった。プロジェクトの進行を立体的に描いているからだ。関係者の家族も含めて、全員が黒部ダムの方を向いていて統一感があった。「クライマーズ・ハイ」との違いはそこだと思う。
 気になったのは作業員が火野正平以外みんな平成顔のスマートなイケメンばっかりなところだ。そこのリアリズムをもう少し何とかしてほしかった。あと裕次郎の役は確か戦後派的な好青年で、新技術を積極的に取り入れていこうとするキャラクターだった。そして古いやり方に固執する父親と対立してたように記憶している。ところが香取慎吾は逆に、グローバリズム不信の時代を反映してか、時代の流れの中で古いものを必死で守ろうとするキャラになっていた。そしてずいぶんガラが悪かった。二人のキャラがあべこべな気がして、妙におかしかった。
 ドラマ版を見て改めて映画版の強烈さについて考えてみた。あの強烈さは日本映画特有の感じだった。スペクタクル・シーンの演出法にはお国柄が表れるというか、日本人のやり方というのが確かに存在する。外国映画なんかは、視点の取り方やカメラワークで個性を出そうとする。日本の場合はみんな神の視点でカメラを置きたがる。何事も正面から堂々と撮る、というのが大好きだ。特に昭和の映画はそうだ。そして大作になればなるほど日本人は愚直になる。
 トンネル工事で大量の水が出たと聞けば、愚直にそれを再現する。掘っては流される役者を正面から撮り、それを延々と積み重ねる。なんというか愚直さのあまり映画自体が無間地獄の様相を呈してくるのだ。そういう映画は「黒部の太陽」だけではない。たとえば「八甲田山」だ。3時間ひたすら雪山をさまよっている。実際に冬の八甲田にこもり、吹雪を狙って役者を歩かせている。無名時代の大竹まことが発狂して裸になって死ぬ役をやっていた。「二百三高地」も無間地獄だった。ひたすら突撃しては全滅し、突撃しては全滅しを延々と繰り返していた。
 観客はこの地獄めぐりに強制参加させられるのだ。これまたなんと言うか、大画面で見ると演じる役者の苦労とそれを見る観客の苦労がシンクロして、実に感動的な体験なんだなあ。