突然変異手塚アニメ(2)

 手塚治虫がなくなったとき、「Comic Box」という雑誌が手塚の特集をして、各界の著名人からの追悼文を載せていた。宮崎駿も寄稿していたけど、その内容が後々まで語り草になるほど凄まじいものだった。実は俺もこの特集号をリアルタイムで購入して宮崎の追悼文に衝撃を受けた一人だ。宮崎は手塚アニメを見て「ぼくは背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました」と書いてるが、俺はそれを読んで同じような気持ちになったよ。宮崎の追悼文はここで全文読める。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20071013/atom01
 さて「アニメ作家としての手塚治虫」である。著者の津堅信之はアニメーション研究者で、京都精華大学マンガ学部准教授だそうだ。この本はおよそ二十年の時を経てようやく出た、上の追悼文に対する反論の書という感じだ。特にアニメの制作費問題、つまり「昭和三十八年に彼は、一本五十万円という安価で日本初のテレビアニメを始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に低いという弊害が生まれました」という発言に対する検証が本書の目玉だろう。ネットで調べても、もっぱら「アニメの制作費問題に斬りこんだ本」という評価のされ方だ。確かにその部分もすごく面白いんだけど、一番俺の興味を引いたのは別の箇所だ。杉井ギサブローが著者のインタビューに答えて、「鉄腕アトム」制作当時のことを振り返っている。
 日本初のTVアニメである「鉄腕アトム」は低予算で過密スケジュールのため、できるだけ絵を動かさない方針だった。そのため「紙芝居」と揶揄されたのは有名な話だ。東映動画を経て虫プロに入った杉井も、この動かないアニメを最初は馬鹿にしていたようだ。しかし出来上がった作品を見て杉井は考えを改めた。そのことは「アニメ師・杉井ギサブロー」でも語っていたけど、この本では「映像娯楽の新種」という印象的な言葉で表現している。杉井はこのときフルアニメーションを捨てたとまで言い切っている。
 では杉井がそれまで関わってきた東映動画と「鉄腕アトム」はどう違うのか。俺が一番興味を持った部分だ。それを調べるために、アトムの放送開始と同年に制作された「わんぱく王子の大蛇退治」を見てみた。演出のテンポやカット割りが古い日本映画そのままで、俺の知ってる日本アニメのリズムとまったく違っていた。本来ならここでワンシーン抜き出して説明したいのだが、ユーチューブに適当な動画がないので予告編で代用させてもらう。しかもリクエストにより埋め込み無効だ。
http://www.youtube.com/watch?v=FXMsSm3OuFw
 古い日本映画というのは例えば、引きの長回しでドラマが進んでいって感情が高ぶるポイントでポンと寄る。「わんぱく王子の大蛇退治」もまったくその呼吸で進んでいくのだ。アクションシーンでもカメラを固定させ、動きの全体像を捉える事に重点を置いている。上の本でやたらディズニーを引き合いに出してるからもう少しディズニー寄りかと思ったけど、これは完全に当時の日本映画の演出法だ。ディズニーの場合、引きのカットはシーンの最初に状況説明として用いられるだけで、後はバストアップの切り返しでドラマが進む。こっちはアメリカ映画の流儀である。ただ、「わんぱく王子の大蛇退治」のタケルと大蛇の対決を見ていると、宮崎駿がここから育っていったのがよく分かる。一方「鉄腕アトム」のほうはどうだろうか。

 絵が動かない代わりにカット割りを早くしている。構図も刻々と変化して、場面がどんどん次に進んでいく。さらにズームを多用して画面に変化をつける。東映動画の洗練に対して、こちらの画面は猥雑なエネルギーを放射している。そして展開が速い。まがりなりにも登場人物の感情の機微を追っていた東映動画やディズニーと違って、「鉄腕アトム」はとにかく素早い場面転換でどんどんストーリーを展開させていく。なにしろ始まってから一分でトビオが事故死して、五分でアトムが完成して、十分でサーカスに売られるのだ。
 「アニメ作家としての手塚治虫」を読んで意外だった点がもうひとつある。当時すでにアメリカのTVアニメが毎週五十本を越える数で放映されていて、それらがみんな動かないアニメだったということだ。これが本当なら「鉄腕アトム」だけが粗雑な紙芝居とはいえなくなる。ためしにユーチューブで「クマゴロー」の第一話を見てみた。

 アメリカのTVアニメってこんな感じだよなあ。シチュエーションコントの連続でストーリー性は皆無に等しいんだけど、問題はその演出だ。確かに動いてないし、たまに動いても中割りがないので動きがポンポン飛んでる。構図の変化もぜんぜんない。作り手がそういうもんだと割り切っている感じが伝わってくる。しかしカット割りのテンポはアメリカ映画の伝統的なリズムで心地よささえ覚える。完成された様式美にしたがってそこから一歩も踏み外さない感じだ。様式美だから動かないのがあまり気にならない。これはフォーマットの勝利だろう。ただしこのフォーマットでドラマは描けないよな。
 こうしてみると「鉄腕アトム」がいかに特異かが分かる。この特異さは当時の制作状況から苦し紛れに生まれたもので、手塚だってやりたくてやった訳ではないだろう。しかしこの偶然の産物から、世界でも類を見ない日本アニメの発展が始まったのだ。新しいものは制約の中から生まれる、という格言を地で行く出来事である。そして宮崎駿が手塚に反発した気持ちもよく分かる。宮崎の本質はアニメーターであり、動きを極めてアートにまで突き抜けてしまった稀有のクリエイターである。動かないアニメが世間にはびこるのは、彼にとって死活問題なのだ。
出発点―1979~1996  アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質  わんぱく王子の大蛇退治 [DVD]  鉄腕アトム Complete BOX 1 [DVD]