ジャン・ピエール・ジュネの罪

 女性映画が苦手だ。どうもOLが好んで見るような映画が俺には合わないようだ。特にラブ・コメの入ってないストレートな恋愛映画には、どうしても興味がわかない。まあそれでもたまに見てしまったりするんだけど。
 ちょっと前にアメリカ映画「私がクマにキレた理由」を見る機会があった。内容はお仕事モノで、大卒のインテリがなぜかセレブ家庭の子守りになってしまうという話だ。大学で文化人類学を専攻していた主人公が、セレブ家庭も異民族を観察する目線で見てしまうというのがミソだ。かなりインテリっぽいシナリオである。アメリカでは子供をひとりにしておくと虐待とみなされて逮捕されるので、ちょっとした外出でも子守りを雇う必要がある。中流家庭の場合は近所の高校生を雇う。セレブ家庭では住み込みの子守りを雇って24時間体制で子供を見てもらう。雇われるのは黒人かヒスパニックだ。この映画を見るとアメリカがあからさまに階級社会であるのがよくわかる。
 まあ、そんなことはどうでもよくて、書きたいのは演出についてだ。見始めてすぐに、これは「アメリ」だと思った。たとえば主人公はよく自然史博物館を訪れるが、主人公がニューヨーク生活についてあれこれ考えていると、ニューヨーク族の生態が展示されていて、そこに主人公の姿まで陳列されてたりする。あるいは主人公が自分の将来に付いて考えていると、キャリア・ウーマンとして街を闊歩する自分とすれ違ったりする。こういった、現実の中に空想を放り込む手法、同一画面に現実と空想を同居させる演出が「アメリ」っぽいのだ。
 最近見たフランス映画「地上5センチの恋心」もそうだ。この映画に関しては演出だけでなく、風変わりな中年女性が回りを幸せにしていく、という内容がそもそも「アメリ」なのだ。明らかに中年女性版「アメリ」を狙った作品である。主人公はすぐ舞い上がる性格なのだが、そうなると実際に宙に浮いてしまう。こういう演出を俺はアメリ的演出と名付けた。
 アメリ的演出はそもそもアニメの手法であり、「トムとジェリー」なんかで多用されていた演出だ(例:「心臓がのどから飛び出るほど驚く」を表現するのに、実際にのどからハートを飛び出させる)。アニメおたくのジャン・ピエール・ジュネ監督が、その手法を女性映画に大量投入したのが「アメリ」なのだ。女性映画をあまり見ない俺が立て続けにアメリ的演出に出くわしたということは、よっぽどこの手法が流行ってるのだろう。かつて「リング」の登場で世界中のホラー映画がリング的演出になってしまったように、女性映画もそんな感じになっているのか。
 「リング」といえばこんなエピソードがある。日本の若手監督が撮る映画は、映像には凝るが中身のない演出が多いという話になったとき、脚本家の高橋洋はそれを指してクロード・ルルーシュの罪と呼んだ。クロード・ルルーシュは「男と女」で映像演出に革命を起こした監督である。最初に聞いた時は、おかしなことを言うなあ、と思ったのだが、成功しすぎるのも罪なのだと気付いて納得した。つまり革命的演出は、革命的であるがゆえに亜流の氾濫を招き、急速に陳腐な手法と化してしまうということだ。そのひそみに習えばアメリ的演出の氾濫はジャン・ピエール・ジュネの罪ということになる。
 面白いのはクロード・ルルーシュの罪というレトリックを生み出した高橋洋自身、リング的演出の氾濫を招いた罪人であるということだ。先の発言は「リング」の一作目がヒットした直後のもなので、高橋さんもまさか自分に当てはまるとは思ってなかっただろうな。
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