アドリブ話法ふたたび

 この記事は3月に書いた「アドリブ話法」の続きです。
 ギャオで放送していた「ツインピークス」がやっと終わった。うわさ通りのバッド・エンディングだった。ユーザー・レビュー欄を見てみると、終わり方に納得していない人が多いようだ。しかしこれは別に終わってるわけではなくて、単に未完なだけである。第一シーズンの終わり方を見れば分かるが、シーズン終わりをバッド・エンディングで締めるというのはおそらくデビッド・リンチの戦略である。この戦略はソープ・オペラ「ダラス」で、シーズン終わりに主人公が撃たれるという結末をつけて大騒ぎになった事件を参考にしたと思われる。もちろん撃たれた主人公は次のシーズンで奇跡的に回復する。
 「ツインピークス」の最終回だって、額面どおりに受け取るのは人が好すぎるというもんだ。レギュラーの何人かが死んでしまったように見えるが、死んだと思われてた人間が実は生きていたという展開はさんざん多用されてたじゃないか。この程度でショックを受けてたらリンチの思うつぼである。俺は逆にこの終わり方を見て、リンチは続ける気まんまんだな、と思った。
 この番組は打ち切りになったのである。打ち切りの経緯はwikipedia:ツイン・ピークスの「製作経緯」を見れば分かるのでここでは詳しく書かない。実際ローラ殺人事件が解決してから極端にドラマの吸引力が落ちている。解決を早めたせいで、終盤の悪役であるウィンダム・アールが登場するまで(このキャラを思いつくまで)間があいてしまったのが致命的だ。やはりばらばらのエピソードをつなぐ芯がないと見ててつらい物がある。
 メイン・プロットは「ブルー・ベルベット」で始まり「X−FILE」で終わるという印象だが、俺が興味深く拝見したのはサブで展開するホテルと製材所のいざこざである。この部分は典型的なソープ・オペラの筋書きと思われる。不倫カップルが敵味方に分かれたり、死んだはずの人間が生きてたり、女主人が使用人に転落したり、ショックで精神が退行してしまったり、悪人が急に改心したり、あらゆるメロドラマのテクニックが惜しげもなく(というか場当たり的に)投入されている。次はどのパターンで行こうかと、楽しんで書いてるリンチの姿が目に浮かぶ。
 謎がちっとも解決されないのも、だから当然である。そもそもリンチが目論んだのはミステリーの形を借りたソープ・オペラだ。ソープ・オペラは人気が出れば何十年も続く物であリ、終わらないのが特徴だ。リンチはソープ・オペラのおきてを律儀に守って、謎が解決しないよう苦心惨憺しているのだ。ミステリーは謎をすべて解決したらそこで終わりだから。もっともアドリブで書けばいくらでも謎は膨らむので、苦心惨憺は言いすぎか。逆に謎が膨らみすぎて超常現象でしか説明がつかなくなっている。
 謎が解決しないといえば「エヴァンゲリオン」だ。この企画は「ツインピークス」という前例がなければ誰も作品として成立するとは思わないだろう。「ツインピークス」の場合、「解決しない謎」はミステリーとソープ・オペラを融合した時に生じた副産物だった。この場合謎は結果であって目的ではない。しかし解決しない謎が話題を呼んで大ブームになれば、今度はそれを前提とした企画が出てくるのもまた必然である。だから謎の要素をさらにエスカレートさせたような作品が生まれた。総監督の庵野秀明デビッド・リンチの崇拝者であることを公言している。
 「ツインピークス」同様、「エヴァンゲリオン」も本放送のあとに映画版が出来た。しかも両方とも、すべての謎が明らかになると称してちっとも明らかにならない。実はアドリブ話法の作品は上手く終わらないのだ。俺が個人的にアドリブ話法の最高傑作と思っている「妖星伝」も、最終巻でかなりテンションが下がってしまう。今気付いたが、「ツインピークス」「エヴァンゲリオン」「妖星伝」三作に共通するのは、最後に現実世界じゃない場所で哲学問答みたいなことが延々と続くという点だ。その後リンチは「ツインピークス」で会得した「謎残し芸」を応用した映画を作りつづけ、庵野は「エヴァンゲリオン」の最終回を今に至るまで延々と作らされつづけている。
 次回は「妖星伝」を軸に、日本の伝奇小説におけるアドリブ話法の系譜をたどってみよう。

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