アドリブ話法ふたたび(2)

 半村良という人は言うまでもなく日本SFの巨匠なんだけど、初期の「石の血脈」「産霊山秘録」「妖星伝」なんかが当時の読書人に与えたインパクトはかなり凄かったようだ。巨石信仰や吸血鬼伝説、あるいは歴史を裏で操る闇の一族といった古色蒼然とした道具立てを、SF的解釈で現代によみがえらせた作品群である。その影響は今も続いていて、神話・伝説を勝手に組み合わせて再構築する作品が小説・まんがを問わず量産されつづけている。
 特に「妖星伝」はこの路線の集大成であり、途方もない大長編小説だ。舞台は江戸時代の中期、この世に悪をなすことが善だと考える鬼道衆という一族がいた。彼らは超能力を持ち、それを使って殺人、強姦、破壊行為を繰り返していた。物語は、主流派と改革派に分裂した鬼道十二家の内部抗争を中心に展開する。しかし死者は蘇るわ円盤は襲ってくるわ、話は予想だにしない方向へ進んでいく。しまいには宇宙人に体をのっとられた男が不思議なことを言い出す。「こんなに命がひしめき合っている星は珍しい。生命はもっとまれな存在である。あり余る命が互いに喰らいあってしか生きられない地獄なのだ」ここにタイトルの意味が明らかになり、地球の生命過剰現象が仕組まれた物であることが徐々に判明する。
 あらすじだけ聞くと荒唐無稽だが、絶妙な語り口で有無を言わさず引き込まれる。そして読み進めるうちに読者の価値観がぐらぐらと揺さぶられるのだ。この「生命が他の生命を喰らわなければ生きて行けない業」という思想は宮沢賢治国枝史郎の作品にも出てくる。もとは仏教から来ていると思われる。
 半村良は、「神州纐纈城」(国枝史郎)に寄せた解説文で、「伝奇小説の面白さのひとつは、ストーリーが次々に膨れ上がっていく面白さである」「その味を出すためには先々の筋も決めずに毎月行き当たりばったりに書く連載が良い」と言っている。国枝作品群を自分なりに復刻するつもりで始めた「妖星伝」にも、当然この方法が採用されている。
 国枝自身も自作をジャズのアドリブになぞらえていて、自由自在に転変して謎が謎を呼び、読者がどこに連れて行かれるか全く予想できない物語を生み出している。ちなみに彼の長編はほとんどが未完である。国枝は大正時代にデビューして瞬く間に流行作家になったが、戦後は忘れられた存在だった。しかし没後四半世紀を経て、突如再評価ブームが巻き起こった。半村の伝奇SFが矢継ぎ早に出てきた頃である。三島由紀夫も「神州纐纈城」を評して、「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性に驚いた」と絶賛している。
 未完の大作といえば五味康祐の「柳生武芸帳」を忘れてはいけない。この作品に至っては途中で作者が話を進めるのを放棄している。物語は枝道に入り込み、その枝がどこまでも横に伸びて行く。次々と新しい登場人物が現れ、錯綜するので筋がわかりにくくなっている。むしろこれは場面場面の面白さで読ませる小説である。特に剣戟場面の緊張感が群を抜いている。明確な主人公がいない集団劇なので、どちらが勝つか(おそらく作者にも)最後まで分からないから。五味はこう言っている。「ぼくが一生懸命書いたのは大久保彦左衛門が登場するあたりまでで、あとは評判がいいから続けてくれと言われて書いただけだから支離滅裂だ」
 どうやらアドリブ話法の作品は必ずと言っていいほど、まともに終われなくなるようである。たまにそのことで怒る人がいるけど、それを言ってはいけない。まともに終わらせようとしたら何が起こるのか、伝奇小説の原点「南総里見八犬伝」を見ればわかる。この物語のクライマックスはそれまでに生き残った登場人物がすべて参加する大合戦である。この戦闘でそれまでの敵味方の人間関係がすべて清算される。このフィナーレに近い戦闘だけで実に「八犬伝」全編の五分の一を占める。ツジツマを合わせるだけの描写がうんざりするほど延々と続くのだ。それが小説として面白いかどうかは言うまでもないだろう。膨らませるだけ膨らませた物語は、しぼませるのにも時間がかかる。そしてゆっくりしぼんでいく物語が面白いはずがない。アドリブ話法がまともに終われないのはそういう事なのだ。
 「南総里見八犬伝」の物語を知りたい人は山田風太郎の「八犬伝」を読むのが良いだろう。本編のダイジェストと作者馬琴の生活が交互に語られる。本編のテンションが落ちるにつれて馬琴のドラマが面白くなるので、最後までスムーズに読める。
神州纐纈城 (河出文庫)   柳生武芸帳 上 (文春文庫)   八犬伝(上)―山田風太郎傑作大全〈20〉 (広済堂文庫)