アクション映画の誕生

 ハリウッド映画に対しては、複雑な感情を抱いている方も多いと思う。アンチ・ハリウッド派からは、あんなもの映画じゃなくてアトラクションだとか、まるで工業製品だとか言われている。それはそれでよく分かるんだけど、どこか否定しきれない部分があるんだなあ。たとえて言うならハリウッド映画は、頭はからっぽだけど性的能力は抜群の風俗嬢みたいなもんだ。頭では否定していても体が反応してしまう、という例のあれだ。
 そう考えるとアンチ・ハリウッド派の気持ちがよくわかる。映画ファンもロートルになってくると体力も落ちるし、瞬間的な快楽よりもじっくり育む愛情が重要だと考えるようになる。愛情よりもテクニックの方が気持ち良いと言わんばかりのハリウッド映画に、いい気分がしないのは当然である。また実際凄いテクニックで攻めてくるから始末が悪い。だからハリウッド映画みたいな風俗嬢に群がる若者を苦々しく思うのだ。このたとえを敷衍すると、いい歳してハリウッド映画を喜んでみるような人間は、さしずめ風俗通いが止められないスケベ親父みたいなもんだ。かく言う俺も、まあ、スケベ親父の部類に入るわけだけど。
 ああいったハリウッド・スタイルのアクション映画がいつから作られるようになったかというのは、はっきりと特定できる。1962年に007シリーズの一作目「ドクター・ノオ」が製作されてからだ。実はこの映画が作られるまで、アクション映画というジャンル自体、存在しなかったのだ。それまでは戦争映画や西部劇などでアクション性の強いシーンが出てくる事はあったけど、アクションだけで映画を成立させるような作品は007を持って嚆矢とする。映画評論家の石上三登志は「ドクター・ノオ」の印象を、「まるでテーマパークのごとき」「史上初のデジタル型ヒーローの誕生」と書いている(イアン・フレミング短編集「007/薔薇と拳銃」巻末解説より)。
 では「ドクター・ノオ」とそれまでのアクション(の多い)映画はどう違うのか。その前年に製作された「ナバロンの要塞」と比較してみよう。ちなみに「ナバロンの要塞」も、はじめて戦争を冒険活劇の舞台として描いた作品である。しかもアクション演出の切れ味は「ドクター・ノオ」をはるかに上まわる。にも関わらず、アクション映画第一号の称号は「ドクター・ノオ」に譲るのだ。その違いは何か。ヒントは石上三登志が言うところの「デジタル型ヒーロー」という言葉にある。
 「ナバロンの要塞」の原作はテンポのいいストーリー展開と盛りだくさんの趣向(あらゆる種類の危機に加えて謎解きまで入っている)で現代冒険小説の雛型となった作品である。その趣向を余すところなく映像化したために、2時間30分の超大作となっている。いま見て思うのはドラマ部分がやたらと丁寧に描かれている事だ。話を進めるための段取りもきちんと描写されるし、味方同士の対立のドラマもじっくり描かれる(原作より増えている)。そのため原作の長所のひとつであるテンポの良さが失われる結果となった。
 それに対して「ドクター・ノオ」は2時間に収まる長さで、事件が連続するうちに訳も分からずに終わってしまう。一回見ただけでは話の筋道が把握できないほどだ。ところが映画を見てから原作を読むと印象はがらりと変わる。「ナバロンの要塞」の原作と同じぐらいの長さだけど、実はあまりテンポは良くないのだ。イアン・フレミングという作家は荒唐無稽なストーリーを細部描写の積み重ねで読ませるタイプである。つまり細かい情報を書き込むことで全体の不自然さを隠すのだ。作家のキングズリイ・エイミスはこれをフレミング効果と名付けた。日本でいうと五味康祐がこれに近い。
 そういう原作なので、映像化しづらい細部描写を取っ払うと荒唐無稽な骨組みがモロに露出してしまう。それでも従来の方法論に従えば、何とかドラマ的に格好がつくように脚色するところだが、この映画の製作者は違った。ドラマ的な整合性は置いといて、観客が疑問を抱き始めるころあいを見計らってアクション・シーン(それが駄目ならベッド・シーン)を、原作に無くてもとにかく挟み込むという手法を編み出したのだ。こういう機械的な脚色術は、まさにデジタル型である。
 ストーリーの分かりにくさもこの手法の副作用だ。序盤の捜査段階から敵がどんどん襲撃してくるわけだから、観客は落ち着いて事態を把握していられない。そのうち因果関係を把握するのをあきらめて、ただ次々に起こるアクションの快楽に身を任せるだけになってしまう。だがそれでいいのだ。話の不自然さに気付かせない巧妙なテクニックなのだから。つまりアクションによるフレミング効果である。この、ドラマ(愛情)よりアクション(テクニック)を優先する思想こそがアクション映画の思想なのだ。
 (以下ネタバレ)原作のオチは悪役のドクター・ノオが鳥の糞の山に生き埋めになるというブラック・ユーモア的なものだが、映画ではボンドとの格闘の末に原子炉の冷却水に落ちる。さらにそれがもとでメルト・ダウンを起こし、秘密基地が大爆発するという、派手な結末に変えられている。まさにハリウッド・スタイルである。というか、今ではハリウッドの専売特許と思われてるスタイルも、ルーツはイギリス映画だったのだ。
 P.S. この記事を書いてる途中でこんなページを見つけた。似たような事を考える人がいるものだ。
http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_review_new/jap_review_goldfinger.htm
007/薔薇と拳銃 (創元推理文庫)  ドクター・ノオ (デジタルリマスター・バージョン) [DVD]  ナバロンの要塞C.E. [DVD]