視点と人称について

 さて、前回は鳴かず飛ばずの小説家だったジャック・ヒギンズが、意識的に自己改造して自作に映画的手法を導入し、そのお陰でベスト・セラー作家になれたという仮説を展開した。この仮説は、彼の作品における人称の変化からも裏付けられる。念のためにヒギンズの小説を年代順に並べて、使われている人称をチェックしてみたところ、きれいに仮説通りの結果になることが分かった。そんな事をして遊んでたら、ふと映画にも人称があることに気が付いた。そういえば小説には視点と人称について明確な分類が存在する。その分類を映画に当てはめるとどうなるだろう。
 話を整理するために、小説における視点と人称の分類をまとめてみよう。
一人称単視点・・・・いわゆる普通の一人称小説。最初から最後まで同じ語り手。
一人称多視点・・・・章ごとに語り手が変わるもの。たいてい叙述トリック系。
ニ人称・・・・主語が「あなた」になってる小説。かなり実験くさくなる。
三人称単視点・・・・主人公が絡む場面しか書かない。ハード・ボイルドに多い。
三人称多視点・・・・いわゆる普通の三人称小説。
人称混合型・・・・例えば一人称と三人称が交互に出てくるとか。
 ざっとこういう感じである。では、それぞれの項目に当てはまるような映画を捜して表を埋めていこう。上手く全部の項目を埋められたらおなぐさみ。
 映画には主観映像というテクニックがある。小説における一人称に相当するものだ。俗に一人称カメラとも言う。要するに誰かの見た目の映像を挿入する手法である。ホラー映画ではよく殺人鬼や怪物の主観映像が使われる。主観映像は割とポピュラーな手法で、イーストウッドなんかはアクション・シーンで多用している。変り種としてはダリオ・アルジェントの「インフェルノ」に出てきた風の主観映像がある。風とは読んで字のごとく空に吹く風である。最初に見たときは何の映像か分からなかった。最近ではシャマランが「ハプニング」で同じ事をしていた。彼は絶対↓「インフェルノ」を見ているはずだ。

 ちょっと考えれば分かるけど、主観映像と言うのはかなり特殊な効果だし、長時間になるほど撮影に手間がかかる。だから主観映像は作品の一部に用いられるだけで、最初から最後まで一人称カメラという映画は存在しない・・・・と思ったら大間違いである。クセ者俳優ロバート・モンゴメリーが監督した「湖中の女」という作品がある。これぞまさに全編を一人称カメラで通した、映画史上に残る珍品である。

 これはレイモンド・チャンドラーのハード・ボイルド小説の映画化である。チャンドラーといえば一人称、という連想か知らないけど凄いアイディアである。もっとも厳密に言えば、時間経過や場所移動の処理が困難なので、要所要所に主人公が書斎で事件の経過を説明する場面が挿入される。そこだけ主観でなくなるので、その意味では人称混合型である。あと一人称カメラだと、どうしても演出にスキマが出来てしまう。無駄なディティールが省略できないからだ。それに主人公のリアクションが見れないのも物足りない。
 ホラー映画で主観映像が多用されるのは、そのもどかしさがサスペンスにつながるからだ。またスラッシャー系の場合、犯人は意外な奴だったという設定が多いので、それを隠す目的もある。殺人鬼が変なマスクをかぶっていたり、殺人シーンで必ず主観映像になったりするのはそういう事だ。ミステリー小説にも似たようなテクニックがある。犯行シーンだけ犯人の一人称になったり、主語が「彼」とか「怪盗X」とかになったりする手法だ。こうする事で犯罪小説と犯人当てを両立する事が出来る。一種の叙述トリックである。
 トリックといえば、主観映像を説明抜きで挿入すると誰の一人称か分からなくなるので、それを利用する方法がある。まず誰のものか分からない主観映像を見せる。観客は大体こういう人だろうと類推する。しかし次のカットで意外な人物だった事が判明するのだ。例として俺の取って置きのアイディアを紹介しよう。森の中を、低い目線の主観映像が移動している。どうやら飼い主と散歩する犬の一人称らしい。飼い主はやさしく声をかけて、目の前にエサを投げる。しかし次のカットで、それは首輪につながれた幼児の一人称だった事が判明する。つまり可愛がられていたのではなく、虐待されていたのだ。
 最近、意外な方向から主観映像のもどかしさを克服した作品が登場した。J.J.エイブラムズ製作の「クローバーフィールド」である。この企画はフェイク・ドキュメントと怪獣映画を合体させたらどうなるかという発想で作られている。特報のインパクトは凄かったなあ。

 見ての通り、ホーム・ビデオには一人称カメラと同様の効果がある。いわば擬似主観映像である。これから「クローバーフィールド」の解説に入るつもりだったけど、長くなりそうなので今回はここまで。続きはまた次回という事で。