視点と人称について(2)

 映像による一人称表現は難しい。時間経過や場所移動を省略できないのでどうしても間延びしてしまうのだ。しかし「クローバーフィールド」はその突破口を提示してくれた。全編ホーム・ビデオの映像というコンセプトよって、間延びの問題がクリアされているのだ。つまり撮影者が撮りたいと思ったものだけ撮っているという設定だから、映像がぶつ切りになってても不自然ではないのだ。途中で撮影者が交代するときがあるので、一人称多視点と言っても良いかもしれない。しかしもっとも秀逸なアイディアだと思ったのは、メインの撮影者を主人公ではなく、主人公の足手まとい的人物にした点だ。これはホームズとワトソンの関係を思わせる。そういえばホームズ物の小説はほとんどがワトソンの一人称である。
 「クローバーフィールド」の先行作品として「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」がある。この映画は主人公たちが撮っているドキュメンタリーの部分とオフ・ショットの部分に分かれる。そしてドキュメンタリーの部分が三人称になっている。

 フェイク・ドキュメントの人称を判定するのは難しいけど、画面に人格を感じるかどうかが基準になると思う。そう思って見ると、取材対象を撮っているときは画面から人格が消えている。我々は通常ドキュメンタリーを見ているとき、撮影者の人格を意識しない。ところが面白い事に、同じ画面なのにカットの声がかかった瞬間にカメラが人格を持ち始める。ワン・カットで三人称から撮影者の一人称に変化するのだ。この感じは小説には不可能だろうな。
 実は厳密な意味での一人称単視点映画は一本しかない。アレクサンドル・ソクーロフ監督の「エルミタージュ幻想」だ。監督の見た夢という設定で、エルミタージュ宮殿(現美術館)を歩き回るうちに近代ロシア300年のさまざまな歴史的場面を幻視する。正真正銘、主観映像よる全編ワン・カットの映画である。予告を見るだけで気が遠くなる。

 これはもうカメラマンのスタミナと精神力が凄い。合計1300メートルの手持ち移動撮影を本番一発で成功させたのだ。撮影は「ラン・ローラ・ラン」でローラの全力疾走を全くブレずに追ったティルマン・ビュットナーである。たぶん世界一体力のあるカメラマンだ。俺なら100メートルも行かないうちに電池が切れてしまう。内容的には、ドラマではなくイメージの連鎖という感じなので、演出のスキマが余り気にならない。それにロケ場所がエルミタージュだから、ただ移動してるだけでもそれなりに見れてしまう。
 たまに複数の主観映像をカット・バックさせる映画がある。例えば二人の人間が向かい合っているシーンで、それぞれの主観映像が交互に挿入されるとか。これが本当の一人称多視点と言える。そういえば俺の知る限り、全編をこういう形で押し通した映画はなかったと思う。全編は難しいとしても、ワン・シーンぐらいなら出来そうな気がする。三人ぐらいで会話してるシーンで、客観映像を使わず、それぞれの主観映像のカット・バックだけで構成するのだ。見る方はともかく、撮る方はかなり楽しいんじゃないか。
一人称単視点・・・・オール・ワンカットの主観映像。作品例は「エルミタージュ幻想」のみ。
一人称多視点・・・・主観映像のみで構成されているが、主観の人物が変わる事がある。作品例としては、厳密には擬似主観映像ではあるが「クローバーフィールド
 ブログ二回分を費やしてようやく一人称の検証が終わった。一人称カメラ自体は珍しい手法ではないが、小説と違って、全編を通して使うのはかなり難しい。独特のもどかしさをカバーできるような戦略がないと長時間はもたないのだ。それに小説と映画では、同じ一人称でも与える効果が全く違う。引き続き二人称と三人称に移りたいが、長くなりそうなので続きは次回。残りの二つは一回で終わらせるよ。