視点と人称について(3)

 映画における一人称についてあれこれ書いてきたけど、今まで紹介してきた映画は特殊な例である。普通に一人称小説を映画化しようと思ったら、結局は三人称映画にするしかないのだ。それくらい映像による一人称表現は使い方が難しい。という事で次は映画における三人称について検証してみよう。
 世の中の映画の八割がたは三人称のみで表現されている。しかし厳密に考えると映画において三人称単視点と三人称多視点がどう違うのかよく分からない。小説での定義に従えば、すべてのシーンに主人公が立ち会っている映画は単視点という事になる。でもそれだけでは足りない気がするのだ。プラス主人公の内面の声をかぶせるという手もあるけど、合わせて一本という感じで明解さに欠ける。何を悩んでいるかと言うと、カメラというのは筆と違って、そこにあるものを全部写してしまうからだ。小説の単視点は主人公以外の描写をそぎおとす事で成り立っている。普通の撮り方ではなかなかそれが出来ないのだ。もちろんフレーミングやフォーカスで調節出来るけど、ではどこまで調節すれば単視点になるのか。
 とりあえず主人公への密着度で決まると仮定しよう。密着度とは物理的なカメラの密着度である。たまに容疑者を取り調べるシーンなんかで、えんえん容疑者のアップだけ写して、尋問している相手はほとんど写ってない、という演出がある。これなんかは単視点的だと思う。しかし、全編これで通した映画はさすがに無いだろう。ここまで極端じゃなくても、すべてのカットに主人公が写りこんでいれば単視点といえるかもしれない。
 「卒業」の前半はかなり主人公密着型で、普通のシーンでもダスティン・ホフマンのアップを執拗に追いつづけ、話し相手の方は写ったり写らなかったりだった。もちろん後半は普通の撮り方になるけど。全編を通しての密着度ならば、ダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」がいちばん高いと思う。すべてのカットに主人公が写り込んでいるのは勿論、監督によるとカメラを常に主人公の半径2メートル以内に置くように心がけたという。主人公が何かを見ると、カメラはそれにパンしてまた主人公に戻る。全編そんな調子で進むのだ。やっぱりここまで徹底しないと単視点にならない気がする。

 最後に映画における二人称について考えてみよう。昔の喜劇映画によくあるギャグ。ナンパに成功した男が女の肩を抱いて立ち去ろうとする。不意に男がカメラ目線になって、観客にウインクする。この瞬間、突如カメラは観客の視点になってしまう。映画の二人称とはこういう事かもしれない。映画を見るという行為は覗き見行為と本質的に同じである、という説がある。たしかに登場人物が急にカメラ目線になると、我々は覗き見がバレたかのような狼狽を覚える。その瞬間、カメラは誰かの一人称でも三人称でもなく、紛れもなく二人称になるのだ。
 マイケル・ケインの「アルフィー」では主人公が頻繁に芝居を中断して、直接観客に自分の内面を語る。その間も周りは芝居を続けている。ジュード・ロウのリメイク版でも同様だ。これは原作の舞台劇でやってた手法をそのまま使ったものらしい。舞台の世界ではシェークスピアの昔から、内面の声を聞かせたいときこういう手段を用いていた。

 これも三人称で進んでる中でやるから効果があるのだ。最初から最後まで観客に語りつづける映画なんてもちろん無いし、あったとしてもそれは漫談の記録映像であって、もはや映画ですらない。唯一考えられるのは、登場人物が入れ替わり立ち代り観客に語りかける形式だ。これなら映画として成立するかもしれない。いわば芥川の「藪の中」みたいな感じである。もちろん「藪の中」をそのままやっても、二人称ではなく検非違使の一人称になるだけだ。でも設定に工夫すれば二人称映画になりそうな気がする。あとはフェイク・ドキュメントの手法を使った擬似二人称という手もある。ニコ生なんか設定として使えそうだ。でも、そういうのは既にあるかな。
ニ人称・・・・全編が観客の目線になっているもの。登場人物がカメラに語りかける事で初めて観客に認識される。作品例はいまの所ないけど最も近いのは「アルフィー
三人称単視点・・・・すべてのカットに主人公を映りこませ、なおかつカメラの距離が常に近い。おそらく「ロゼッタ」のみ。
三人称多視点・・・・主観映像や観客への語りかけをまったく使ってないもの。作品多数。
人称混合型・・・・主観映像や観客への語りかけを部分的に使っているもの。作品多数。
 さて、ようやく結論にたどり着いたぞ。やっぱりカメラというのは本質的に三人称多視点であり、主観的な表現には不向きなツールだ。だからこそ、そういう表現の出来るアーティストが尊敬されるわけだ。文章の場合は逆に、客観的な表現の方が難しい。映画では一時的な効果としてならともかく、全編を通しての一人称や二人称は、だから相当工夫しないと無理である。いや、実は一時的な効果として使うにも工夫がいる。例えば部屋の隅に黙って座っている人の主観映像があったとして、果たして観客はそれを主観映像だと思うだろうか。その人が何か行動を起こしてはじめて主観映像だと認識できるのだ。
 ・・・・おっと、逆に言えばこれは映像トリックになるじゃないか。まず長回しの映像をしばらく見せる。観客はそれを三人称だと思いこむだろう。だがしばらくすると、いきなり登場人物がカメラ目線になる。最後にカメラがアクションを起こして実は一人称だった事が分かるのだ。これだと観客はワン・カットの中で三つの人称を体験することになる。最後の最後でこんな手法を発見するなんて、なんだか出来すぎてるなあ。