アンチ自分探し派

 20世紀最大の哲学者といえば、ハイデガーヴィトゲンシュタインだ。俺は断然、ヴィトゲンシュタイン派だなあ。理由は単純、かっこ良いからだ。なにしろオーストリア随一の資産家の家に生まれ、姉はクリムトのモデル、兄は有名なピアニスト(第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、ラヴェルリヒャルト・シュトラウスプロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している)という華麗なる一族の末っ子である。バートランドラッセルに見出されてケンブリッジの研究生になるけど、第一次世界大戦がはじまるやオーストリアに帰って志願兵になる。その戦場で書き上げたのが代表作「論理哲学論考」だ。かっこ良いなあ。それに比べて樽職人の息子で、血迷ってナチスに入党したことを終生つっこまれ続けたハイデガーのかっこ悪さはどうだ。
 ヴィトゲンシュタインといえば「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」というフレーズが有名だ。これは「論理哲学論考」のシメのフレーズである。よく考えると当たり前のことを言ってるだけな気がするけど、なんか神秘的でかっこ良いんだよな。
 この人の事を初めて知ったのは中学のとき山田正紀の「神狩り」というSF小説を読んでからだ。神というのは実は邪悪な存在であり、昔から多くの人が戦っては敗れてきた、という話だ。そこに出てくる「人知れず神と戦う天才哲学者」のイメージが、俺のヴィトゲンシュタイン観を決定付けたのかも知れない。この小説で彼は、今こそ語りえぬことについて語るときが来たと決意した瞬間、癌に倒れるのである。語りえぬこととは神のことだったという解釈だ。ちなみに「神狩り」には30年後に書かれた続編というのがあって、そこではハイデガーの「存在論」が神と戦うアイテムとして登場するという。しかし一作目の鮮烈なイメージを大事にしたい俺は、怖くてまだ読んでない。
 というわけで大学に入ると、早速「論理哲学論考」を読んでみた。難しすぎて歯が立たなかった。途中まで読んで放り出してしまった。それ以来ヴィトゲンシュタインの思想については薄ボンヤリとした理解のまま今にいたってしまった。
 ところで先日、社会学橋爪大三郎の「心はあるのか」という本を読んだ。俺は昔から心の問題だの自分探しだのといった話題がよく分からなかった。だからこのタイトルを見た瞬間、なるほどと思った。「心」なんてものは実は無いんだ。みんな無いものをあるように錯覚してるから悩むんだな。長年のもやもやを晴らしてくれると思ったので、図書館で借りてきた。読んでみるとこの本はヴィトゲンシュタインの解説書だった。「論理哲学論考」や後期の言語ゲーム論のエッセンスが分かりやすくまとめてある。
 この本を読んでようやく「論理哲学論考」が何を言っているのかが分かった。いわゆる独我論というやつだ。独我論とは自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆる存在は信用できない、とする立場だ。つまり「我思う、ゆえに我あり」である。ヴィトゲンシュタインはそこからさらに踏み込んで、自分の精神の中にも信用できないものが紛れ込んでいるので、それらも切って捨てましょうと言っている。その理屈はこうだ。(1)世界はさまざまな出来事で出来ている。出来事はさらにそのパーツである、物から出来ている。(2)物をさすのは名詞であり、名詞を組み合わせて文章が出来る。文章化することで初めて人間は出来事を認識できる。(3)このように世界と言語は一対一の関係で対応している。対応物があるのでお互いに分析可能である。これを写像理論という。(4)ところが言語の中には、現実世界と対応物を持たないものが紛れ込んでいる。「神」とか「天使」とか「丸い四角」とかである。それらは世界の中に対応するものが無いので、分析不可能である。だから考える事も出来ないし、言う事も出来ない。
 なんとなく孔子の「怪力乱神を語らず」を連想させる。こうしてみると「神狩り」の、語りえぬこととは神のことだという解釈も、あながち的外れでもないわけだ。ともあれ、あの神秘的な「かた沈」フレーズをようやく理解する事が出来た。これからは心がどーの自分探しがこーの言ってくる鬱陶しい奴には「それは、かた沈だぜ」と返すことにしよう。
神狩り (ハヤカワ文庫 JA (88))   論理哲学論考 (岩波文庫)   「心」はあるのか―シリーズ・人間学〈1〉 (ちくま新書)