映画の叙述トリック(2)

 前回の記事を書いてからずっと考えている事がある。「ユージュアル・サスペクツ」問題である。この映画は叙述トリックの名作という評判があるけど、俺にはどうしてもそうは思えないのだ。もちろんこれが犯罪サスペンス映画の一級品であることは間違いない。しかし叙述トリック映画としてはどうかというと、どうも認める気になれない。だってこれはただの嘘なんだもん。小説で考えれば分かると思うけど、容疑者の証言が嘘だったというのは通常の叙述の範囲内である。叙述トリックというのはそうじゃなくて、いかに嘘をつかずに観客を誤解させるかの勝負なのだ。つまり「言ってないだけで、嘘はついてないよ」の世界である。この感覚が分からないと叙述トリックは分からない。
 「羅生門」が世界に衝撃を与えて以来、回想シーンはたまに嘘をつくようになった。ヒッチコックにも「舞台恐怖症」という嘘回想を使った作品がある。たまに混同する人がいるけど、時系列を入れ替えたりする映画と、こういう回想シーンの使い方は別物と考えるべきだ。おっと、さっきから回想シーンなんて言葉を無神経に使っているが、よく考えたら回想シーンにも二種類あるじゃないか。(1)登場人物が自然発生的に回想するパターンと、(2)誰かに喋っている事が映像化されるパターンだ。ここで問題にしているのは(2)の方だから、これを「証言の映像化」と名付けて(1)のいわゆる「回想シーン」と区別しよう。自然発生的な回想に嘘の入り込む余地は無いが、証言の映像化は「羅生門」も「舞台恐怖症」もそうだけど、実は嘘でしたで終わる危険性をはらんでいる。やっぱり嘘でしたで終わるのはちょっとアンフェアじゃないかな。
 回想シーンといえば、話は変わるけど「プライベート・ライアン」問題があった。思いついた事があるので、ちょっと寄り道したい。この映画は全体が老人の回想という設定なのだが、この老人の正体がラストで初めて明かされるというのがミソである。しかし見終わった後で疑問が残る。なぜ老人は参加してもいないオマハ・ビーチの戦闘を回想できるのか? この事でスピルバーグは映画文法に無頓着だとの風評が出ているが、俺は確信犯だと思う。だってわざわざトム・ハンクスそっくりの老人を使っているから。つまり意図的に観客をミスリードさせているのだ。それはいいとして、問題は回想の始め方がアンフェアな事だ。老人の顔のアップから回想を始めると、映画文法的にどうしても本人が回想している事になってしまう。これをフェアなやり方で描写するにはどうしたらいいか。やはり老人の顔からのオーバーラップじゃなく、墓石からのオーバーラップにするべきだろう。死者の霊魂が回想しているという形にすればいいのだ。「サンセット大通り」方式である。墓碑銘を見せたくなかったら墓石を裏から撮ればいい。その場合、老人からカメラを引いていって墓石がフレーム・インしたところでオーバーラップにする。ここまでやって初めて「嘘はついてないよ」と言えるのだ。
 さて話を戻そう。割と最近の話題作だけど、「アヒルと鴨のコインロッカー」という日本映画がある。この映画では証言の映像化で観客を引っ掛ける形になっているけど、かなり鮮やかなやり方で処理している。映画を見た後で原作を読んでみたら、叙述トリック小説だったのでびっくりした。この脚本家は相当頭がいい。いや、ちょっと知ってる人だからこういう書き方は白々しいな。脚本を書いたのは中村監督自身と、成城映研時代から監督の右腕だった鈴木謙一という人だ。大学は違えど、憧れの先輩的な人たちだった。そんな感情を抜きにしてもこの脚色は上手いと思う。では「ユージュアル・サスペクツ」は許せなくて、なぜ「アヒルと鴨のコインロッカー」は許せるのか。実はこの映画では証言者は何一つ嘘はついてないのだ。ただ聞き手が誤解するように仕向けてるだけである。まさに「言ってないだけで、嘘はついてないよ」の世界なのだ。この映画に出てくるのは証言の映像化というより「聞き手のイメージの映像化」である。それを成立させるために、過去の事件に登場する人物の顔は前もって聞き手に提示されている。この方法を採用する事で叙述トリックではなくなったけど、極めてフェアなやり方で観客を(というか聞き手を)ミスリードしているのだ。
 叙述トリック小説の映画化といえば、「ハサミ男」というのがあった。この映画では脚本協力に長谷川和彦相米慎二の名前がクレジットされている。にもかかわらず結構評判が悪い。原作は一人称と三人称が交互に出てくる人称混合型で、仕掛けられた叙述トリックはメインとサブの二種類。人称混合型なのはそのうちのサブ・トリックを成立させるためである。映画ではどうなっているか。サブ・トリックの方はカメラ・アングルを工夫して映ってはいけないものを隠すことで成立させていたが、メインの方は完全に映像化を断念していた。その代わり原作では特に隠していない一要素を拡大して、これを全編に渡るメイン・トリックに昇格させている。恐らく参考にしたのはロバート・マリガンの「悪を呼ぶ少年」だろう。これを某有名映画と同様の演出で処理している。つまり原作のメイン・トリックを捨てて、別のトリックをはめ込んだのだ。かなり悩みに悩んだ脚本だと思う。俺は原作を読んだあとで映画を見たのだが、そのせいかどうしても無理に無理を重ねてこしらえた感じが最後までぬぐえなかった。あと非難が集中しているのはラストである。皮肉な感じでスパッと終わる原作に対して、映画では事件が終わった後さらに15分ぐらいだらだらと主人公の心のドラマが展開されるのだ。この改変は上からの指示くさいけどね。
 最後に、まだ見てないんだけどきっと面白いだろうな、という作品を紹介しよう。クロード・シャブロルの「Que la bête meure」という未公開のフランス映画だ。原作はダニエル・デイ・ルイスのお父さんにしてイギリスの桂冠詩人セシル・デイ・ルイスがニコラス・ブレイク名義で書いたミステリー「野獣死すべし」だ。この小説はタイトルを大藪春彦にパクられたほか、日本ではオールタイム・ベストの上位にかならず食い込む名作として有名だ。前半はひき逃げで息子を失った父親の手記。後半ではその手記をめぐって意外な物語が展開するという叙述トリック小説だ。果たしてこれをどう映像化したのか? 評判によると、原作の叙述トリックを力技で映像化して見事成功させた傑作に仕上がっているという。さすがヌーベルヴァーグ三羽烏の一翼にして無類のヒッチコック・マニアであるシャブロル監督だ。ああ見たいな、これ!
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