映画ファンは妄想がお好き

 前々回からずっと金田一とか横溝のパチモンについて書いてるけど、書きながらどんどん妄想が膨らんででくるのを抑えられなかった。どんな妄想かって? 映画ファンの妄想といえば相場が決まっている。「俺ならこう映画化するね」というやつだ。小説を読めば必ず、この役はだれそれでこの役はなにがしで、と考えてしまう。同好の士と飲めばキャスティング談義に花を咲かせる。駄作を見ればどうすれば面白くなるかを、一文の得にもならないのに必死で考えたりする。
 いま俺の中で膨らんでいるのは「八つ墓村」に関する妄想である。この小説は横溝正史の作品でいちばん映像化の回数が多い。にもかかわらず原作に忠実に映像化されたことがないという、ある意味やっかいな代物なのだ。俺は高校時代に初めて原作を読んで、子供の頃から慣れ親しんだ松竹版「八つ墓村」と余りにも違うのでビックリした覚えがある。原作の方はほとんど冒険小説になっていて、主人公は映画に出てこない人と印象的なラブ・ロマンスを展開するのだ。しかも登場人物は映画の倍ぐらい増えていた。どうしてそんなに多いのかと思ったら、それだけの人数を用意しないとトリックが成立しないからだ。つまりトリックからして映画と違っていたのである。まあ金田一が余り活躍しないのはどっちも一緒だったけど。
 そして俺はすっかりこの小説にハマってしまった。何しろ後半は400年前に落武者が隠した財宝探しである。こういうシチュエーションは男の子のロマンをくすぐるものがある。それにヒロインの里村典子が魅力的だった。彼女は「本陣殺人事件」の一柳鈴子と並ぶ萌えキャラである。もし俺が監督するとしたら、高校時代に読んだときの感動をそのまま忠実に映画化するだろう。すなわち恋と冒険の一大ロマン。連続殺人事件なんてどうでも良いのである。
 しかし過去の映像化作品では必ずと言っていいほど財宝探しがカットされているのだ。それだけならまだしも、ヒロインであるはずの典子が、ほとんどの作品で削除されている。ヒロインを削除する映像化なんて異常事態もいいとこである。まあ、それだけ厄介な原作という事だろう。加えて橋本忍が脚色を担当した松竹版の出来がよかったので、後続の作品がそれに引きずられたという面もあるに違いない。たとえば松竹版の翌年に制作された毎日放送のドラマ版なんかは、せっかく全五回238分の長尺を与えられたのに典子を削除している。その上もの凄く不条理な結末になっていた。あのオチは橋本忍に対抗しようとして無理やりホラーにしたとしか思えない。
 いま思い出したけど、そういえば怪奇大作戦の「霧の童話」も同じようなオチだった。制作順では「霧の童話」のほうが古いので、邪推すれば松竹版以上に不気味な結末を模索していた毎日放送版の製作者が、たまたま目にとまった「霧の童話」を思わずパクってしまったという事かも知れない。ちなみに「霧の童話」は八つ墓村ファン必見の作品なので機会があったらぜひ見て欲しい。毎日放送版「八つ墓村」と違って、こちらは結末に必然性がある。
 出来がいいとはいえ橋本忍のアプローチはかなり特殊である。なにしろミステリー小説を完全にホラー映画に作り変えてしまったのだから。松竹版では「たたりに見せかけた連続殺人」ではなく「本当のたたり」という事になっていた。ミステリーが結末でホラーに転じてしまう映画としては過去にアンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督の「悪魔のような女」という名作がある。おそらく橋本はこの映画を念頭に置いたのだろう。いったん合理的に解決されたかに見えた事件が最後の最後でひっくり返る構成を踏襲している。そのために橋本が新たに導入したのが「犯人の血筋」というアイディアである。これは脚色史上に残る秀逸な仕掛けだと認めざるをえない。
 仕掛けが決まればそこから逆算して物語を再構築しなければならない。主人公は別の女性とくっつく必要があるので自動的に典子は削除される。財宝探しもホラーにそぐわないのでカット。たたりの原因となる落武者のパートを拡大して大々的な見せ場にする代わりに、トリックを簡略化して登場人物を減らす。こうして出来たシナリオは複雑な原作を換骨奪胎して、シンプルで首尾一貫したホラー・ストーリーになっていた(それでも上映時間は150分を超える)。さすが日本映画史上最高の脚本家と呼ばれるだけの事はある。
 ならば俺は橋本忍が捨てた要素を使って再構築するまでだ。里村典子から逆算して物語を作るのだ。原作の前半は連続殺人事件の話だけど、後半は洞窟の冒険を中心に描かれる。当然、典子が活躍する洞窟の冒険はたっぷりと見せなければならない。落武者惨殺と三十二人殺しも当然入れるとして(入れなきゃ世間が納得しない)、問題は連続殺人事件の部分だ。俺の計算によると、洞窟の冒険と二つの殺戮シーンで合計60分以上の尺が必要になってくる。すると連続殺人は残りの60〜90分で描かなければならない事になる。そこが難しいところである。
 この小説の厄介さはミステリーなのにトリックをそのまま映像化できないという点にあった。そのまま映像化しようとしたら登場人物を削ることが出来ない。削れなければ、ただでさえ長大な原作を時間内に収めることが出来なくなる。そこで俺は考えた。だったら事件そのものを削ってしまえばいい。そもそも主人公辰弥が呼び戻されたのは田治見家当主である久弥の先が長くないからである。久弥が死ねば田治見家は直系の血筋が絶えてしまう。それを防ぐために辰弥に後を継がせようとしたのだ。つまり辰弥さえいなければ遅かれ早かれ犯人の目的は達成されることになる。だったら狙われるのは辰弥一人で充分じゃないか。彼は何度も命を狙われながらも、そのたびに辛くも助かるという感じに変えてしまおう。例えば酢のものぎらいの辰弥が小鉢を隣席の洪禅和尚に譲ると、そこに毒が入っていて・・・・とか(もちろん久弥兄さんは自然死)。
 ただ、何人も殺されないと村に暴動が起きないので、この調子ではいつまでたっても辰弥は洞窟に追い込まれない。だから村人を煽動する博労の吉蔵をもっと偏執的なキャラにする必要がある。時には事件を捏造してまで辰弥を陥れようとするのだ。これで洞窟の追いかけっこも一層盛り上がるだろう。あっ、いい事思いついた。松竹版の仕掛けをこちらも取り入れて、辰弥を尼子の直系の子孫という事にしてしまおう。辰弥が洞窟で襲撃されると、竜の顎がビカーッと光って落武者の亡霊が現れる。「辰弥さま、あなたこそ財宝の正当な相続人です」 そして神秘の力で暴漢どもは木霊に鼓膜を破られ、鬼火に焼かれ、竜の顎に串刺しにされるのだった。
 原作ファンからすれば冒涜に近い改変ぶりかもしれない。原作殺しと言う人もいるだろう。しかしこれも俺が典子を深く愛するゆえの行為だという事をご了承願いたい。というわけで次回はこのかめえろ版「八つ墓村」のキャスティングを発表したい。乞うご期待。
 里村典子萌えキャラ説
http://mayusaki24.hp.infoseek.co.jp/8grave.html
 毎日放送版の不条理なオチ
http://pfish2006.blog57.fc2.com/blog-entry-146.html

77年松竹版 山崎努 78年毎日放送中村敦夫 96年東宝岸部一徳