うつし世はゆめ

 ある日とつぜん、かめえろと名のる猫がぼくの家をたずねてきて、ペネトレに会わせろという。ペネトレはぼくが小学五年生のときから、ぼくの家にすみつくようになった猫なんだ。ぼくとペネトレとの対話が本になったのは、もう十年いじょうも前のことだ。その本はロングセラーになって、文庫化もされている。かめえろは最近この本をよんだみたいで、ぜひペネトレにあって感想をいいたいそうだ。でもあいにくペネトレは散歩にでかけて留守なので、かわりにぼくが相手をすることになったんだ。

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

かめえろ;じつはおれがこの本を手にとったのは、土浦連続殺傷事件の犯人がこの本をよんでたという話をきいたからなんだ。たしか犯人は高校時代に父親によまされて、えいきょうを受けたそうだね。
ぼく:いきなりいやな事をいうね。
かめえろ:ふだん、映画やテレビの暴力描写が少年に悪えいきょうをあたえるとかいってる大人たちも、これには困ったろうね。なにしろえらい大学教授がかいた、りっぱな哲学書なんだから。ひにくを言ってるわけじゃないよ。読めばわかるけど、あきらかに犯人は自分をせいとうかするために、本の一部だけ抜きだしてねじまげている。だから、これは映画の暴力描写をなくしてすむもんだいじゃないんだ。なにをみても自分勝手にねじまげるということは、太陽がまぶしくても殺人の動機になる、ということだからね。
ぼく:その動機はなんだか聞いたことがあるなあ。
かめえろ:犯人がどうえいきょうを受けたかは↓を見てね。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/ibaraki/feature/mito1237386252941_02/news/20090328-OYT8T00014.htm
ぼく:かめえろはその事をいいにきたの?
かめえろ:いや、ちがうよ。犯人うんぬんは話のマクラみたいなもので、ほんとうはこの本をダシにして、自分で勝手に考えたことをしゃべりに来ただけさ。この本は面白かったよ。よくできたショート・ショートを40話よんだかんじだ。
ぼく:この本は哲学的対話集であって、ショート・ショート集じゃないんだけど。
かめえろ:おれにとっては同じようなもんだ。「この世はみんな物語」がおれの哲学だから。そんなことより、この本にあった人生体験マシンについて考えてみたんだ。れいの、にせものの一生を本物のように体験させる機械だよ。
ぼく:ペネトレによると、いまの自分の人生は、マシンが見せているにせものの人生かもしれないんだって。でもぼくはいやだな。そんなにせものの人生は。
かめえろ:おれはべつにかまわないよ。というかむしろ、せっきょく的にそう思いこむことにしたんだ。なぜならこの世がみんな物語だというなら、自分の一生だって物語でなきゃいけないからね。それには人生体験マシンの考え方を利用するのがいちばんだと気付いた。つまり自分以外の奴らは、自分のためにお芝居を見せてくれていると考えるんだ。ペネトレはいわなかったけど、ひょっとしたら自分の行動だって、すじがきにそって動かされているのかもしれない。そう思ったら、きゅうに楽しくなってきたよ。なにしろ自分がいま考えてることだって、マシンがそう考えるようにしむけてるのかもしれないから。
ぼく:それじゃまるっきり、あやつり人形じゃないか。それでもいいっていうの?
かめえろ:サウス・パークにそんな話があってね。マシンが出てくるわけじゃなくて、ただの夢オチなんだけど、オチのあとがすごいんだ。夢の中の登場人物は自分が夢の中の存在だって事をほんとうは分かっていたんだ。でもちゃんとそれを受けいれて、つかの間の人生を楽しもうっていうんだ。感動的なフィナーレだったよ。これを見ておれは、人生経験マシンが見せてくれる夢のかんきゃくとして生きていこうと決心したんだ。
ぼく:ふーん、それはかめえろがふだん考えている事に近いから、面白くかんじるんだろうなあ。ふつうの人が見たら、へんなオチだと思うだけじゃないの。
かめえろ:とまあこんな感じの対話で哲学を学んでいく本だ。あんまり面白かったので文体模写をしてみたけど、結構疲れるな。あやつり人形のくだりはキリスト教の予定説をおれなりにアレンジしたものだ。映画だと「マトリックス」や「主人公は僕だった」は、この予定説をもとに作られている。もちろんおれはキリスト教の信者になったわけではなく、世界を認識する道具として予定説を利用しようと思っただけなんだけど。そうそう、サウス・パークといえば先日なかなかいい画像をもらったから載せておこう。これはid:picon00が作ったサウス・パーク風のおれだよ。似てるかな?