獅子心王、尊厳王、失地王(3)

 前回はノルマン・コンクエストの話で終わってしまったので、その続きから。今度こそ本当に「ロビン・フッド」の話に入るぞ。本当だぞ。
 ノルマン・コンクエストから30年後の1096年、第一回十字軍の遠征が始まる。いよいよ十字軍時代の幕開けである。この年からおよそ200年にわたって十字軍運動はダラダラと続いてくわけだけど、一番のハイライトはやっぱり第三回十字軍の獅子心王リチャード一世とシリアの稲妻サラディンの死闘だろう。リチャード獅子心王は「ロビン・フッド」の冒頭に登場する王様だ。彼はウイリアム征服王から数えて六代目のイングランド王である。リチャードもまたノルマン系の例に漏れず、自分をフランス人だと思っているフランス語しか喋れないイングランド王だった。勇猛果敢な武将としてイギリスでも特に人気のある王様だけど、俺には映画「冬のライオン」に出てきたマザコンの印象が強い。
 「冬のライオン」の舞台は1183年クリスマスのシノン城。時のイングランド王ヘンリー二世と王妃エレノア、そして三人の息子達による骨肉の争いを描いている。長兄のリチャード(後の獅子心王)を溺愛する王妃と末っ子のジョンを後継者と考えるヘンリー二世、さらに真ん中の子ジェフリーや若きフランス王フィリップ二世の思惑が絡んできてドロドロの後継者争いが展開する。毎年クリスマスに家族が集まるという設定はフィクションだけど、そこで語られる家族の歴史は史実に忠実である。シノン城はフランスのロワール渓谷に位置する城。だからフランス王が気軽に立ち寄る事が出来る。そして何度も言うようだが、イングランド王は代々フランス王の家臣だ。つまりこれは完全にフランス宮廷の話なのだ。
 イングランド王にピーター・オトゥール、王妃にキャサリン・ヘップバーン、そして長兄リチャードに若手時代のアンソニー・ホプキンスという重量級のキャスト。おまけにフランス王は四代目ジェームズ・ボンドティモシー・ダルトンが水もしたたる美青年振りを見せつけてくる。この家族の駆け引きがとにかく虚々実々過ぎて一瞬たりとも気が抜けない。見終わったらぐったりする事請け合いである。映画的というより演劇的に充実した作品といえる。
 特に元フランス王妃にして現イングランド王妃エレノア(仏名アリエノール・ダキテーヌ)のキャラが強烈だった。フランス王妃時代は自ら軍を率いて第二回十字軍に参加したほどの女丈夫。フランス王との離婚後、十歳年下のヘンリー二世と再婚するも激しい気性は収まらない。たびたび夫への反乱を企て、とうとう監禁状態に。奇しくも同時代の巴御前北条政子を髣髴とさせる女傑ぶりだ。そう考えると、エレノアの息子たちと政子の息子たちは何となく似ている。アホのジョンが頼家、マザコンのリチャードが実朝、日陰のジェフリーが公暁(兄弟じゃないけど)といったところか。フランス王フィリップは後鳥羽上皇の立ち位置かな。ちなみにエレノアから見るとフィリップは前夫の後妻の子という事になる。ややこしいね。ともあれ、「冬のライオン」で描かれた骨肉の争いは後の「ロビン・フッド」まで尾を引くことになる。
 「ロビン・フッド」はリドリー・スコットの前作「キングダム・オブ・ヘブン」の続編的な意味合いを持っている。まずこの二本は時系列的に連続している。そして根無し草の男が見知らぬ土地で地位を築き、やがて外敵から「第二の故郷」を守るために戦う、というストーリーが共通している。あと大人になってから自分の生い立ちを知り、亡き父の意志を継ぐという所も同じだ。恐らくハリウッドのイギリス人である監督自身の姿を投影させているのだろう。
 第一回十字軍は首尾よく聖地奪還に成功して十字軍国家イスラエル王国を作り、それを百年間維持してきた。しかし「キングダム・オブ・ヘブン」で描かれたハッティンの戦いで十字軍は全滅する。ハッティンの戦いが起きたのは1187年だから「冬のライオン」から四年後の事だ。主人公のバリアン・オブ・イベリンは実在の人物で、イスラエル王国生え抜きの武将である。しかし映画では無理やり根無し草のフランス人に改変しているので、かなり不自然なキャラになっていた。おおむね史実にのっとった状況の中に異質な主人公を放り込んだらどうなるか、というシミュレーションのような脚本である。だがそんな欠点を帳消しにするくらい、エドワード・ノートン扮する仮面のイスラエル王ボードワン四世がかっこ良い。リドリー・スコットの時代劇で一般的に最も評価が高いのは「グラディエーター」だろうけど、ボードワン四世萌えの俺としては主人公に無理があってもこの映画のほうに軍配を上げたい。
 エルサレム陥落の報告を受けたローマ教皇は再び聖地をキリスト教徒の手に奪還すべく、第三回十字軍の遠征を呼びかけた。リチャード獅子心王戴冠式を済ませるなり、さっそくこれに参加してイングランドを後にする。マザコンだけに前回の遠征に失敗した母エレノアの雪辱を晴らそうと思ったのかもしれない。「キングダム・オブ・ヘブン」のラストはエルサレムに向かうリチャードの姿で終わっていた。そして遠征を終えてイングランドへ帰還する所から「ロビン・フッド」は始まる。この間に有名な、中世イスラム最大の英雄サラディンとの戦いがある。
 これらの映画の隙間を補完するには、最近めでたく完結した塩野七海の「十字軍物語」が便利だ。女傑エレノアと息子たちの人生のあらましを知ることが出来る。ついでに200年におよぶ十字軍運動の全体像も。我々には縁遠い中世という時代を張り扇口調で分かりやすく描いていて、「平成の司馬遼太郎」の異名を持つ塩野七海の面目躍如といったところだ。この作品でも仮面のボードワン四世はかっこ良い。まあ、「十字軍物語」については俺なんかがぐだぐだ書くよりも、野口悠紀雄 の書評でも貼ったほうがよっぽど読者のためになるだろう。
http://poetsohya.blog81.fc2.com/?mode=m&no=1657
 あと十字軍に関しては子供の頃にテレビで見た「ジンギスカン」という映画が印象に残っている。十字軍の騎士とイスラム兵が追いかけっこをしているうちに中央アジアに入り込み、ジンギスカンの軍勢と出くわすという話で、十字軍関連の映画でもかなり毛色の変わった作品だ。もう一回見たいんだけどソフト化されてないんだよなあ。
 この映画のヒントになったのは第五回十字軍のときのプレスター・ジョン騒動だろう。この頃、遙かアジアの彼方から謎のキリスト教国プレスター・ジョンが大軍を率いて十字軍を救出するという情報が流れた。実はその大軍というのは、後にヨーロッパ全土を震撼させるモンゴル帝国の来襲だったのだ。あいつらは乾燥地帯の悪魔の中でも最悪の部類だからなあ。十字軍とイスラムで仲良くケンカしている所に、シャレにならん連中が乱入してきたという感じか。モンゴル帝国を撃退できたのはサムライとベトコンとベドウィンぐらいである。
http://rekishihodan.seesaa.net/article/160950994.html
 上のサイトにも書いてあるけど、マルムーク朝のバイバルスが止めてくれたおかげでエルサレムはギリギリ助かったんだよな。やるじゃんシリア。「十字軍物語」によると、このバイバルスという人は奴隷からスルタンにまで上りつめた苦労人なのだ。モンゴル帝国の進出をくい止めたマルムーク朝は、続いて領内に残存する十字軍勢力を各個撃破していく。最後のほうはヨーロッパの十字軍熱もすっかり冷めてしまって、誰も遠征軍をよこさなかった。こうして十字軍運動は幕を閉じる。途中から三つ巴の戦いになったけど、最終的に聖地争奪戦を制したのはイスラムだった。
 そういえば、日本が蒙古軍を撃退できたのは神風のおかげと言われているけど、最近の研究ではどうも神風が吹かなくても勝っていたらしい。ヨーロッパのほうがよっぽど運に助けられてるじゃないか。つーか、こんな事ダラダラ書いてたら話が進まないよ! いや、俺はもう諦めた。次回に続くけど、どうせまた「ロビン・フッド」の話は出来ないんだろうな・・・・
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獅子心王、尊厳王、失地王(2)

 前回は「ロビン・フッド」の話題の前ふりのつもりで「キング・アーサー」の話を始めたら止まらなくなってしまい、そのまま終わってしまった。今回はちゃんと「ロビン・フッド」を語るつもりだ。でもその前に、ついでだから「キング・アーサー」の時代から「ロビン・フッド」に到るまでのイギリス史をざっと解説してみよう。
 梅棹忠夫の名著「文明の生態史観」によるとユーラシアの乾燥地帯は悪魔の巣なのだそうだ。昔からこの地域のものすごく無茶苦茶な連中が何度も押し出してきては文明に深刻な打撃を与えてきた。中国の歴史はこいつらユーラシア遊牧民との死闘の歴史と言ってもいいし、ローマ帝国の衰退も元はと言えばアッチラ大王でお馴染みのフン族匈奴)のせいである。370年に突如としてヴォルガ川の東から現れたフン族は東ヨーロッパに強大なフン帝国を築いた。それに押し出される形でゲルマン民族が大移動を始め、彼らの侵入に耐え切れなくなったローマ帝国イタリア半島の経営さえおぼつかない状態になってしまう。
 ゲルマン民族はイギリスにも続々と侵入してきたが、力を失っていたローマ帝国はイギリスを放棄。現地のブリトン人は独力でゲルマン民族に対応しなくてはならなくなった。その頃のイギリスの状況を描いたのが「キング・アーサー」である。この映画は元ネタのアーサー王伝説を大幅に改変しているので、まずオリジナルに忠実な映画を見たいという人はジョン・ブアマン監督の「エクスカリバー」をおすすめする。「エクスカリバー」は脚本の効率のよさが凄くて、二時間半の間に「トリスタンとイゾルデ」以外の有名エピソードをほとんど網羅してしまっている。独特の映像感覚で定評のある監督だけに神秘的な雰囲気醸成に力が入っていた。途中で中だるみがあるけど「剣と魔法の物語」としてのアーサー王映画ではこれが決定版だと思う。
 さて、アーサーの奮戦もむなしく、やがてイギリスはゲルマン系のアングル人やサクソン人の支配する国となる。すなわちアングロ・サクソン七王国である。現在の英語はこのアングロ・サクソンたちの言葉がベースとなっている。これら七王国の支配地域がやがてイングランドとなる。イングランドとは「アングル人の土地」という意味である。
 8世紀にはいると、今度は北欧のバイキングの活動が活発化してくる。バイキングはフランス北部やイギリス東部に続々と進出していった。この頃のバイキングとイングランド王との抗争を描いた「バイキング」という映画がある。カーク・ダグラス主演、リチャード・フライシャー監督という「海底2万マイル」コンビの海洋冒険映画第二弾だ。この映画はバイキングの風俗や思想を忠実に再現していて非常に評価が高い。ディズニー制作のファミリー向け「海底2万マイル」と違って、こちらはどぎついタッチの残酷時代劇である。いま見ても刺激的なシーンの連続で面白い。余談だが日本公開時、映画に出てくる豪快な食事シーンに感銘を受けた帝国ホテルのお偉いさんが、自社の食べ放題メニューをバイキングと名付けたという逸話がある。それ以来、日本では食べ放題の事をバイキングと呼ぶようになった。
 ちなみにレッド・ツェッペリンの名曲「移民の歌」の移民とはバイキングの事である。恐らくイギリス東部に進出したデーン人を歌っていると思われる。

 一方、フランス北部に進出したバイキングはそこに定住してノルマン人となった。ノルマンとは「北の人」という意味である。彼らが定住した地域はノルマンディーと名付けられた。1066年にノルマン人のウイリアム一世(征服王)がイングランドに侵攻してくる。これが有名なノルマン・コンクエストだ。このときから現在にいたるまで、イングランドはノルマン系の王様が支配する国になった。つまり元々の原住民であるケルト系のブリトン人の上にゲルマン系のアングロ・サクソンが覆いかぶさり、さらにその上から元バイキングのノルマン人が支配階級として君臨するようになったというわけだ。
 元バイキングとはいえ、この頃のノルマン人は完全にフランス語を話すフランス人になっていた。だから本当のことを言えば、歴代のイングランド王というのは主にフランスに住んでフランス王に忠誠を誓うフランス貴族だったのだ。彼らの本拠地は依然としてノルマンディーであり、イングランドはあくまで領地のひとつに過ぎない。日本で例えれば薩摩藩主が琉球王をかねている状態を想像すれば分かると思う。実際の薩摩藩は幕府と中国をごまかすために傀儡としての琉球王家を残したけど、ノルマンディー領主は堂々と支配している。しかしイングランド王にイギリス人としての自覚が芽生えるのは百年戦争を経過するまで待たなければならない。このことは佐藤賢一の著書「英仏百年戦争」に詳しく書いてある。
 こうした真実をあえて知らん振りして、ウィリアム征服王を建国の英雄みたいに語るのがイングランド人だ。リドリー・スコットイングランド人なので、その辺の話題は当然スルーである。イギリスの下層階級が移民して出来たアメリカの方がかえってフランス人に対して素朴なコンプレックスを抱いている。また、今でもフランス人が米英に対してやたらでかい顔をしてるのも、心のどこかでご先祖様に征服されたやつらと思っているからに違いない。そういえばノルマン・コンクエストから900年後の1944年、その征服されたやつらの子孫がナチスからフランスを解放するために上陸したのがノルマンディーというのも歴史の皮肉を感じさせて面白いな。
 イギリス史のさわりだけ語るつもりが思いのほか長くなってしまったので、続きは次回ということで。一体いつになったら本題の「ロビン・フッド」に入れるやら・・・・
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獅子心王、尊厳王、失地王

 今朝はなかなか印象的な夢で目が覚めた。俺は学校の教室みたいな場所にいた。その教室には机も椅子もなく、代わりに四十個ほど洋式便器が生えていた。その中の二個が壊れていて、ウンコが流れない。俺は必死でバケツの水をかけたりして溜まったウンコを流そうとしている。という所で目が覚めた。夢判断が得意な人はぜひこの夢の意味を教えて欲しい。
 さて本題。先週、図書館からリドリー・スコット監督「ロビン・フッド」のDVDを借りて見てみた。「ロビン・フッド」といえば五年ぐらい前にケビン・コスナー主演のやつを見たけど、あんまり印象に残ってないなあ。モーガン・フリーマン扮するムーア人を出して新味を出そうとしていた事だけは覚えている。全く生かせずに終わってしまったけど。古くはエロール・フリンが戦前に主演した「ロビン・フッドの冒険」という名作があって、やっぱりこっちのほうが印象深い。テクニカラーの華やかな色彩で描かれた、おおらかな雰囲気の作品だった。戦前の映画だけあって、変にリアリズムに色気を出さず作り物の楽しさを徹底的に押し出したような感じだ。今でもこの作品がロビン・フッドもののスタンダードだと思う。
 それでリドリー・スコット版はどうかというと、なんか色々と無節操に流行を取り入れまくっていて、過去のロビン・フッドから遠く離れた感じになっている。まず、この作品はロビン・フッドという義賊が誕生するまでの物語である。これは「バットマン・ビギンズ」や「カジノ・ロワイヤル」の成功を意識したものと思われる。したがって従来は冒頭の三十分で語られる、ロクスリー卿の息子ロビンがノッティンガムの悪代官と対立してシャーウッドの森に逃げ込み云々というロビンの前歴が大幅に改変されて、かなり段取りがややこしくなっている。
 しかしどう頑張っても元ネタは単純な民話である。ロビンの前歴だけで二時間半を持たせるにはもう一つ工夫が要る。そこでリドリー・スコットが取った作戦は、同時代の歴史的トピックを大量に挟み込むという手法だ。伝説上の人物を歴史の中に組み込むという方法論は「キング・アーサー」がお手本だろう。
 「キング・アーサー」はアーサー王のモデルの一人であるアルトリウスについての最新の学説を元にストーリーを組み立てている。すなわちアーサーはブリテンに駐在していたローマの軍人であったという解釈で、サクソン人を一時的に撃退した勇者であるものの、ブリテンアイルランドアイスランドノルウェーガリア(フランス)にまたがる大帝国を建設した偉大な王ではない。王妃グウィネヴィアや魔法使いマーリン、騎士の中の騎士ランスロットといった周辺人物もその線に従って改変されている。
 簡単に言えばローマ帝国ブリテンを放棄した409年を基準点に、その前後の歴史的トピックをギュッと圧縮してアーサーという元ローマ兵の一代記に当てはめた感じである。当時のブリテンは親方ローマの衰退により防衛力が低下していた。そのため北のスコットランドや西のアイルランドからの勢力が侵入してきて現地のブリトン人と衝突した。さらにはアングル人やサクソン人といったゲルマン民族が海を渡って続々と入ってきた。そんな中、ローマの撤退後も現地に残ってブリトン人を守るために戦ったローマ兵がいた。それがアーサーというわけだ。
 前半はアーサーのローマ兵としての最後の仕事が描かれる。この部分はスパイ映画でよくある要人救出ものになっている。恐らくハドリアヌスの壁をベルリンの壁に見立てた発想だろう。時代劇でこういう感じの話は滅多にないから新鮮で面白かった。前半の山場である氷上の戦いもアイディアが秀逸だった。そしてローマ撤退後の後半は白人酋長ものにシフトする。白人酋長ものとは文明世界の一般人が蛮族の王となる物語のことで、「王になろうとした男」や「闇の奥」などイギリス文学お得意のパターンだ。この後半部分がありきたりで物足りない。それに主人公が時代背景にお構いなくやたらと自由の尊さを訴えているのも気になった。いかにもアメリカ映画らしいけど、当時のキリスト教徒がそんな思想を身に付けられるわけないだろ。深読みすれば、そこに製作者の政治的主張を読み取ることができる。つまりアーサーはイラクに駐留するアメリカ兵のメタファーなのだ。そして自由と民主主義を布教するため、米軍はイラクに留まり続けるべきだと暗に主張しているわけだ。
 余談だが、東洋史学者である岡田英弘の著書「日本史の誕生」によると、後漢末期の倭国はこの頃のブリテンの状況そっくりなのだそうだ。どういう事かというと、184年の黄巾の乱から始まる動乱によって後漢は衰退し、倭国との交易が途絶えてしまう。親方中国を失った倭国はたちまち「相攻伐すること歴年」という状態になった。いわゆる倭国大乱である。要するに、それまで中国のお墨付きをもらっていた倭王が後ろ盾を失った途端、まわりの豪族が一斉に牙をむいたという感じだろう。いづこも同じ秋の夕暮れというわけだ。ブリテンと違って中国の軍人が駐留していた形跡はないので、現地に居残って倭王のために戦った中国兵なんてのはいないと思う。この倭国大乱を経て倭人諸国連合の長に収まったのがお馴染みの卑弥呼である。西のアーサー、東の卑弥呼といった所か。卑弥呼アーサー王と違って実在の人物である事はハッキリしているけどね。
 そういえば「キング・アーサー」で全身にペイントを施した現地人が登場する所なんか、黥面文身の倭人を髣髴とさせて面白かった。しかしペイントを施すのはスコットランドから進入してきたピクト人の風習である。映画の役どころからすれば彼らはブリトン人でないとおかしいんだけど、アーサーを「蛮族の王」にするためにあえてピクト人にしたのだろう。ブリトン人はすでにローマ化してるから。そのため映画では彼らの設定を故意に曖昧にして、ブリトンでもピクトでもなく「ウォード」なる名称を付けられていた。ちなみに「キング・アーサー」の時代から800年後が舞台の「ブレイブハート」でもスコットランド人はペイントしていた。恐るべしピクト人のDNA。そして信じがたい事に今でも・・・
http://www.afpbb.com/article/politics/2877856/8943992
 「ロビン・フッド」の記事のはずだったんだけど、「キング・アーサー」の話ばっかりになってしまったな。続きはまた次回という事で。
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陰影の新基準

 やはり1971年という年が重要である。この年は、前回の記事にも書いたけど、70年代アメリカ映画のルックを決定した撮影監督ヴィルモス・ジグモンドが2本の西部劇を撮って関係者の度肝を抜いた年だ。一般的な映画ファンにとっては「フレンチ・コネクション」と「ダーティハリー」という2本の刑事アクションが登場した年という印象が強いと思う。実を言うとこの2本の刑事アクションは現代劇における映像面での新機軸を打ち出した作品でもあるのだ。
 「ダーティハリー」の撮影監督はプリンス・オブ・ダークネスの異名を持つブルース・サーティース。あだ名の通り影の黒さが印象に残る。「フレンチ・コネクション」の映像はとにかく衝撃的だった。映画的な滑らかさを持つ「ダーティハリー」とはまた違う、徹底したドキュメンタリー・タッチの荒々しい映像。薄暗い場所は薄暗いんだというリアリズム。そこにある物をそのまま撮ったような感じ。これは同時代の映画に多大な影響を与えた。
http://d.hatena.ne.jp/katokitiz/20080301/1225817475
 同じ年にもう一本、「コールガール」という映画がある。こちらは私立探偵を主人公にした、地味だけど見逃せない映画である。撮影監督は翌年に「ゴッドファーザー」を撮るゴードン・ウイリス。「ゴッドファーザー」も画面が暗かったけど、「コールガール」はもっと暗い。彼の映像スタイルがこの時点ですでに確立している事がわかる。こちらは「フレンチコネクション」とは対照的に、カッチリした人工的な画面だ。ただし映画としては展開に起伏がないので少々退屈である。
http://blog.goo.ne.jp/geeen70/e/bd8701f0304bb2a4093a103cfbf25e08
 「コールガール」はクライマックスに突然こんな画面が出てきてハッとさせられる。ウイリスという人はときどきこんな超現実的なイメージを放り込んでくる。

 この感じはその後ちょくちょくパクられている。例えば「カンパニー・マン」のこれとか。

 考えてみると「ゴッドファーザー」オープニングの暗い室内も超現実的である。だって結婚式の招待客をもてなしてるんだから、部屋が明るくないとおかしいでしょ。あれは「華やかな結婚式の裏では不気味な相談が進行している」という観念の映像化である。決してリアリズムではない。「コールガール」の暗さも、だから現代人の心の闇というテーマを画面で表現しているわけだ。
 これらの作品群はみんな犯罪映画だけど、それぞれ映像スタイルが異なる。リアリズムの権化のような「フレンチ・コネクション」と観念的イメージの「コールガール」を両極端として、映画的画面に影の黒さをプラスした「ダーティハリー」がその中間に入る感じだ。スタイルが違うにもかかわらず、この三本にはある共通点がある。一言でまとめると、「暗闇の復権」だ。どの作品も従来の基準から言えば著しく暗い画面が頻出する。まるで昔のフィルム・ノワール照明の再現である。フィルム・ノワール照明とは例えばこういうやつだ。

 これをカラーにすればそのままこの時期の犯罪映画のワン・シーンになる。ちなみに上はジョン・オルトンという撮影監督が撮った「ビッグ・コンボ」のひとコマだ。このジョン・オルトンなる人物も映画史における伝説的な存在である。
http://slashdot.jp/~Pravda/journal/474794
 フィルム・ノワールは光と影の美学とか言われるけど、実は低予算であまり照明が使えないゆえの苦肉の策なのだ。40年代から50年代まで、アメリカではこういう低予算の犯罪映画がいっぱい作られた。フランスの評論家がそれをフィルム・ノワールと名付けた。60年代に入るとカラー時代になるし、テレビの普及で観客動員も落ち込んできたので、こういう添え物映画は作られなくなる。そんな映像を決して低予算とは言えないカラー作品で堂々と再現してしまったのが1971年の作品群なのだ。三者三様のアプローチからこういう結果になったのが興味深い。それらを撮った撮影監督はみんなデビュー間もない新人だった。きっとみんな若い頃はフィルム・ノワールを夢中になって見てたんだろうな。
 翌72年が「ゴッドファーザー」の年だ。ダメ押しともいうべき究極の暗闇映画である。いまやベスト・テン級の名作として名高く、犯罪映画の風と共に去りぬと言われている。何よりその陰影の美しさが素晴らしい。ユーチューブをいろいろ見てみたけど、これが一番面白かったので紹介しとく。ありゃ、リクエストにより埋め込み無効になってる。
http://www.youtube.com/watch?v=T43NmjKoUfQ
 フレドー何やってんだよ。アメリカ映画が電気をつけなくなったのは「ゴッドファーザー」のせいである。これが社会現象になるほど大ヒットしたので、しだいに犯罪映画以外でもこういう照明が使われるようになる。つまり映画の暗さの基準を塗り替えてしまったのだ。お客を部屋に入れたら電気をつけるというリアリズムはこのとき消滅した。
 映像美という点では「PART II」の方が完成度が高い。こっちはまともな予告編だよ。

 いよいよその陰影術が完成の域に達して、ワンカットワンカットが絵画的で隙がない。この人の凄さは一度リアリズムを断ち切ったところから映像を構築していく所にある。現在のアメリカ映画を見ると、「フレンチ・コネクション」式リアリズムよりもウイリスみたいに現実を絵画的に再構成したようなアプローチが主流になっているようだ。
 ウイリスは「ゴッドファーザーPART II」と同年に「パララックス・ビュー」という政治サスペンスも撮っている。これがまたSF的なまでに誇張された超現実的イメージの連続で驚かされる。やっぱりこの人は観念の人なんだなあ。監督が「コールガール」と同じアラン・J・パクラなので、誇張癖はパクラ監督の個性かもしれないけど。
http://screen-pages.blogspot.com/2010/11/parallax-view-1974.html
http://www.imdb.com/video/screenplay/vi3629383705/
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ニューシネマ西部劇の映像美

 西部劇というジャンルは60年代に入るあたりから衰退して、アメリカ本国では製作本数が激減していった。その空白を埋めるかのようにマカロニ・ウエスタンがブームになるけど、それもすぐに飽きられてしまう。いよいよ西部劇はもう駄目かという時に登場したのが「明日に向って撃て」と「ワイルドバンチ」だ。この二本がヒットしたお陰でちょっとした西部劇ブームが起る。ニューシネマ旋風の真っ只中でもあったので、この時期の西部劇はほとんどがアウトローを主人公にした反体制的な内容である。そして映像面ではほとんどが「明日に〜」をお手本にしている。
http://mangotreevalley.blogspot.com/2008/06/butch-cassidy-and-sundance-kid.html
 ポスト「明日に向って撃て」の観点から見ると1971年に公開された二本の西部劇が重要である。ロバート・アルトマン監督の「ギャンブラー」とピーター・フォンダ監督・主演の「さすらいのカウボーイ」だ。二本とも撮影監督はヴィルモス・ジグモンドが担当している。このジグモンドという人が凄いんだ。どれだけ凄いかというと、70年代アメリカ映画のルック(映像スタイル)を決定したのが彼なんだって。
http://blog.goo.ne.jp/geeen70/e/5712a7e0f01fe0d15ef30cd3a0a47e34
 ジグモンドはフラッシングという特殊技術を開発したことで名高い。フラッシングとは現像前のフィルムに弱い光を感光させて影の部分のディティールを出す技術だ。よく暗い場面から明るい場面にオーバーラップするときに、影で潰れてた所が一瞬見えたりするでしょ。原理的にはあれと一緒だ。最初にその技術を使ったのが「ギャンブラー」である。

 「明日に〜」の映像感覚をベースに、そこにフラッシング特有の淡く古びた感じの効果をプラスしている。セットはよりリアルに薄汚くという感じで作りこんでるけど、それでも美しさを感じさせる。秘密はジグモンド独特の照明設計にある。基本的に薄暗いんだけど、画面のどこか一点が過剰に輝いているのだ。それはローソクだったりランプだったり、あるいは窓から差し込む日の光だったりする。屋外も例外じゃなくて、必ずどこか露出オーバー気味になっている個所がある。この手口に気が付いたとき、俺は「2001年宇宙の旅」のこれを連想した。

 月面で発見されたモノリスを調査するシーン。ライトをモロに画面に写しこんでいる。その部分だけは光り輝いてるんだけど、それ以外は真っ暗である。この不思議な画面がいかにも真空という感じを演出している。ジグモンドの照明設計はこれに似た効果をもたらしている。どんなに汚い場所を撮っても、まるで真空のように澄んだ印象を我々に与えるのだ。この手法はそれ以来ジグモンドのトレード・マークになる。「さすらいのカウボーイ」の場合はこんな感じ。

 ジグモンドはこういう構図を見つけるのが実に上手い。明らかに現場の光線状態から逆算してカメラ位置を決めている。日本人はこういう発想が苦手である。どうしても構図とカット割りばっかり考えてしまって、光線にまで頭が回らない。「さすらいのカウボーイ」の動画はこちら。
http://www.imdb.com/video/screenplay/vi210632985/
 ジグモンドの二連発を皮切りに、「明日に〜」をお手本にしたような映像派ウエスタンが次々と作られる。「ギャンブラー」「さすらいの〜」の翌年には、「俺たちに明日はない」の脚本で注目されたロバート・ベントンの監督デビュー作「夕陽の群盗」が登場する。撮影監督は「ゴッドファーザー」でお馴染みのゴードン・ウイリス。ちなみに「夕陽の群盗」は「ゴッドファーザー」と同年の公開だ。

 頭を撃たれるとちゃんと脳ミソが飛び散るのがニューシネマだ。銃撃のシーンなのでカット数が多いけど、どのカットも逆光になるような位置にカメラをセットしてある。最後の馬がつないである場所は逆光になってないんだけど、影を差し込ませてなんとか逆光的な画面にしている。雰囲気に一貫性を持たせるためである。同じく「夕陽の群盗」から幻想的な霧のシーン。

 同じ年には屋外シーンのほとんどを逆光で通した「男の出発」も公開されている。監督はスチール・カメラマン出身のディック・リチャーズ。おお、これはスゲエな。マルボロのCMかよ。

 同じ年には後に「ライトスタッフ」や「存在の耐えられない軽さ」を作るフィリップ・カウフマンの監督デビュー作「ミネソタ大強盗団」も登場する。撮影監督はプリンス・オブ・ダークネスの異名を持つブルース・サーティース。あだ名の通り、影の黒さを際立たせた撮影を得意とする。これとかカラヴァッジョみたい。

 このあたりを頂点にしてニューシネマ西部劇のブームは徐々に下火になっていく。その後の西部劇はクリント・イーストウッドが独りで支えていく事になるんだけど、そのイーストウッドを映像面で支えたのが「ミネソタ大強盗団」のサーティースなのだ。さしずめイーストウッド組の舎弟頭といった所か。彼の献身ぶりには涙ぐましい物がある。サーティースはイーストウッドの求める黒を表現し続けるために、当時生産中止が決まったあるフィルムを買い占めて事務所の倉庫に隠すという事までやってのけるのだ。だからそれ以降、サーティースの魅力的な黒を拝めるのはイーストウッド作品だけになってしまった。それが彼の任侠道ということか。
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1970年の官能

 なんか映画の國名作選と銘うってイタリア映画のクラッシック3本が劇場公開されている。
http://www.eiganokuni.com/meisaku-itaria1/
 映画の國というのは紀伊國屋書店が出しているDVDレーベルの事らしい。要するにDVDの宣伝のためのリバイバル公開というわけだ。調べてみたら案の定3作品ともデジタル上映だ。フィルム上映じゃないのがチト残念だけど、スクリーンで見られるだけでも良しとするか。今のご時世、こういう名作をスクリーンで見る機会はなかなか無いからね。
 ところで今回上映する3本の中に、ベルナルド・ベルドルッチ監督の「暗殺の森」がある。1970年の作品だ。これは映像美の話題になると必ず名前が上がる一本である。撮影監督はヴィットリオ・ストラーロ。おそらく現在もっとも有名な撮影監督である。60年代の後半あたりからこれまでにない新しいタイプの撮影監督が続々と登場するんだけど、ストラーロはその代表格と言っていい。

 いま見ると意外に画面が明るくてつやつやした印象である。全体的に後年の諸作に比べると光と影のコントラストが弱い感じがする。なんとなくキューブリックを思わせる。かと思うと突然、極端に影の濃い映像が現れたりする。おそらく「2001年宇宙の旅」をかなり研究したんじゃないだろうか。オープニングのこれなんて、まるでHAL9000のメモリー・ルームである。

 ストラーロの映像はよく官能的と評されるけど、そういえばキューブリックの映像も官能的と言われる。おそらく感性が似通っているのだろう。逆にキューブリックの方もストラーロに影響を受けてたふしがある。例えば「アイズ・ワイド・シャット」のこれとか「暗殺の森」をパクったとしか思えないでしょ。

 ちなみにこの年のアカデミー撮影賞はデビッド・リーンの「ライアンの娘」だ。撮影監督のフレディ・ヤングは戦前から活躍しているベテランで、リーンとのコンビで「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」を撮っている。雄大な自然を美しく捉える腕前で一世を風靡した人だ。この作品に到ってはフィルムの解像度の向上とあいまって、最高傑作と言ってもいい鬼気迫る映像美を見せてくれる。

 ただし室内撮影は残念ながら60年代風味なんだよなあ。とても「暗殺の森」と同年の映画とは思えない。まあ、これはこれで伝統芸能みたいな味があるんだけど。

 ユーチューブにいい動画がなかったので「ライアンの娘」の予告はここで見てくれ。
http://www.imdb.com/video/screenplay/vi1836123929/
 それにしても嵐のシーンはスゲエな。全編を通して実に美しいんだけど、基本的にはやっぱり木綿の質感である。この時点ではまだこういう映像スタイルの作品が多かったようだ。でもすぐに絹の肌触りを持つ新しい撮影監督たちが映画界を席巻する事になる。
 絹の肌触りといえば、「暗殺の森」の翌年にはキューブリックの「時計じかけのオレンジ」が登場する。撮影監督のジョン・オルコットはライトを少ししか使わないので有名だ。なにしろスーツ・ケース一個に収まる量のライトで一本の映画をまかなってしまう、という伝説の持ち主なのだ。その点「光で書く」をモットーに、色とりどりのライトを縦横無尽に駆使するストラーロとは対照的である。そのくせ出来上がった画面を見ると、二人とも妙につやつやしてるのが面白い。

 さて「暗殺の森」で世界的な注目を浴びたヴィットリオ・ストラーロだけど、ベルドルッチ作品以外では結構B級映画を担当する事が多い。たとえば「暗殺の森」の翌年に彼は2本のジャーロを撮っている。「歓びの毒牙」と「新・殺しのテクニック/次はお前だ!」だ。さらにその2年後にはエロチック・コメディ「青い体験」なんてのを撮る。「歓びの毒牙」はダリオ・アルジェントのデビュー作だけど、当時のアルジェントはどこの馬の骨ともわからぬ新人だった。「青い体験」だって結果的に大ヒットしたとはいえ、どう考えても国際的な名撮影監督の撮る映画ではない。でも、そんなB級映画も平気で撮ってしまうストラーロが俺は大好きだ。
 「新・殺しのテクニック」はまだ見てないけど、これを見るとやっぱり映像がいい。見たいなあ。

 映画の國名作選 I イタリア編の上映館はこちらを参照。東京での上映はもう終わっちゃったけど、他の所ではまだやってるみたい。
http://www.eiganokuni.com/meisaku-itaria1/theater.html
[rakuten:gold-cat:10000998:image]  ライアンの娘 特別版 [DVD]  時計じかけのオレンジ [DVD]  新・殺しのテクニック/次はお前だ! [DVD]

1969年のオシャレ

 先日「マリアンの友だち」のビデオを見てたら、あるシーンで奇妙なデジャブを感じた。「マリアンの友だち」はジョージ・ロイ・ヒル監督が「明日に向って撃て」からさかのぼる事5年前に撮った青春映画である。女子高生二人組が街でたまたま見かけた中年男を追い掛け回すという話で、「おもろうてやがて悲しき」結末を迎える。この中年男をピーター・セラーズが好演している。アンジェラ・ランズベリー扮する美人ママなんてのも出てきて、ピーター・セラーズとラブ・シーンを演じる。それが俺にはクルーゾー警部ジェシカおばさんがいちゃついてるように見えて、ちょっと気持ち悪かった。ダニエル・クロウズの人気コミック「ゴーストワールド」はこの映画がヒントになっているそうだ。
 それで俺がデジャブを感じた問題のシーンがこれだ。

 女子高生がピョンピョン飛び跳ねて遊んでいる所をカメラを傾けたり、ジャンプ・カットや早回しを駆使したりして長々と撮っている。似たようなシーンをどっかで見た気がするなあ、と思ったらこれだった。

 言わずと知れた「ビートルズがやって来るヤア!ヤア!ヤア!」である。「マリアン」と「ビートルズ」は同じ1964年に制作されているので、どちらがパクったとかそういう話ではない。この演出スタイルのお手本はヌーベルヴァーグだ。当時はみんなヌーベルヴァーグのかっこ良さにイカれていた時代だ。同じ方向を目指せば自然と似てくるのも無理はない。ただしオシャレ度は「ビートルズ」のほうが数段上である。この頃の彼らは世界一のアイドルであり、何をやらしても魅力的だった人たちだ。アメリカの小娘がかなう相手ではないのである。
 ここからようやく本題の映像論に入る。「ビートルズ」に負けた恨みではないだろうけど、ジョージ・ロイ・ヒルは5年後に究極のオシャレ映画を発表する。それがポール・ニューマン主演の「明日に向って撃て」だ。この映画は監督のオシャレへの執念が生み出した作品である。

 逆光を多用した美しい撮影に流れるような編集、そしてバート・バカラックによるダバダバ・スキャット。「マリアン」と比べると、フィルムの解像度がわずか5年で驚くほど向上している。この高解像度を生かした画面作りは撮影監督コンラッド・ホールの手柄である。彼はこの作品で1969年度のアカデミー撮影賞を受賞している。その後の西部劇の映像面でのお手本になった映画である。ちなみにホールは30年後に「アメリカン・ビューティ」や「ロード・トゥ・パーディション」で再びアカデミー撮影賞を受賞。その間ずっと第一人者でありつづけた撮影界の鉄人なのだ。
 このシーンなんかはマジック・アワー撮影だ。柔らかくていい感じの光線である。マジック・アワーとは、日没直後や日の出直前の淡い光があたりを包む時間帯の事だ。

 淡い光でもこれだけ写るという事はフィルムの感度がそれだけ向上したという事だ。それに60年代のカラー映像というのは絵の具をベタ塗りしたような色彩のイメージがあるけど、これを見ると色の再現性もかなり向上している。皮膚の質感とか布地のディティールをわりと忠実に捉えている。そしてマジック・アワー独特の摩訶不思議な空の色!

 ロイ・ヒル監督が今回お手本にしたのは1966年のフランス映画「男と女」だ。

 カラーとモノクロを取り混ぜたスタイルがまずオシャレだ。そこに必然性がないからカッコイイ。そういえば「明日に〜」も冒頭はモノクロだった。カラー部分はモノクロ部分に合わせるためか彩度を落として淡い色彩にしている。撮影はカメラマン出身のクロード・ルルーシュ監督が自分でまわしている。この逆光趣味にナチュラルな色彩が加わると「明日に〜」の映像が出来上がる。
 「男と女」のオシャレっぷりはアメリカ人に衝撃を与えたらしく、「明日に〜」と同時期には「華麗なる賭け」というオシャレ犯罪映画も製作されている。ワイルド・アメリカンの代表選手のようなスティーブ・マックイーンがオシャレ紳士に扮して、フランス人作曲家に作らせた主題歌をバックにヨットでクルージングしたりするのだ。抱き合う男女の周りをグルグル回るカメラワークもしっかりパクっている。撮影監督はハスケル・ウェクスラー。この人もかなり面白い人物なんだけど、その話はまた後日。
 とりあえず「華麗なる賭け」のオープニングを見てくれ。かなり気合の入ったオシャレっぷりだから。

 当時のポール・ニューマンとスティーブ・マックイーンは宿命のライバルだった。ニューマンがギャンブル映画「ハスラー」に主演すれば、マックイーンは「シンシナティ・キッド」に主演する。ニューマンがハードボイルド「動く標的」に出れば、マックイーンは「ブリット」に出る。ニューマンが脱走もの「暴力脱獄」を作れば、マックイーンは「パピヨン」を作るといった具合。さらに二人ともスピード狂でレースに出るのが趣味だった。マックイーンがセブリング12時間耐久レースで二位になると、ニューマンもル・マン24時間レースで総合二位という成果を残す。何とも凄まじい。
 そんな二人が西部劇と現代劇の違いはあれ、「男と女」に影響を受けたオシャレ映画(しかも強盗が主人公)に相次いで主演してしまう。これはやはり偶然ではなく必然と考えるべきだ。つーか良く見たら「男と女」と「華麗なる賭け」はDVDのジャケットまでそっくりでやんの。
ハード・デイズ・ナイト [DVD]  明日に向って撃て! (特別編) [DVD]  男と女 特別版 [DVD]  華麗なる賭け [DVD]