ユーモアとスラップスティック

 なんとなくタイトルにひかれて小林信彦のエッセイ集「定年なし、打つ手なし」を手にとってみた。70年代から80年代にかけてサブカル青年のスターだった小林先生も、老後はかなり不安を抱えて生きているようで寂しい気分になった。かつては筒井康隆と並び称されるほどのユーモア小説家だったのになあ。俺は結構この人の小説を集めていたんだけど、最大の武器である「笑い」を封印して以降の作品はまったく読んでいない。
 それで懐かしくなってこのエッセイ集を読んでみたんだけど、老後に関する話題は最初のほうだけで、後はおなじみの小林流文学論・芸能論がえんえんと続いていた。いちばん面白かったのが「なぜ笑いにこだわるか」というユーモア文学論で、やっぱりこの人は老後の心配をグチるより、しつこく笑いにこだわっていたほうが似合っている。ただ自分の体験から書き起こすのはいいけど、話が断片的になってしまい、重要な作家ががあちこち抜け落ちているのが物足りない。この人にはどうしても「日本の喜劇人」みたいなものを求めてしまうのだ。だったら自分で書けばいいじゃん。ということで今回は小林信彦のまねをして、自分の体験に即しながらユーモア文学論を展開しつつ、小林先生が取りこぼした作家を拾っていこうと思う。
 小学校の四年生あたりまでは、よく学校を休んでいた。少し微熱が出ただけで大げさに騒ぎ立て、なるべく休もうとするせいだ。その頃の俺は、あんまり学校が好きではなかった。微熱だから、しばらく寝ていれば治ってしまう。そうなると後は退屈な時間をどう過ごすかが問題だった。小学生にとって、体が何ともないのに寝てなくちゃいけないのは結構つらい。とはいえ、あんまり大っぴらな暇つぶしはできない。なぜならうちは自営業だったので、寝ている横を両親が入れ替わり立ち代り通るからだ。なにしろ限りなく仮病に近い病欠である。バレたら怒られるに決まっている。
 そんなわけで学校を休んだときは、いつも布団の中でコッソリ本を読んでいた。まんがはすぐに読めてしまうので、なるべく活字の多い、読み応えのある本が望ましい。親が通りがかったときにすばやく隠せる文庫本がベストだ。しかし文庫本で小学生が読んで楽しめるようなものはなかなか無いんだよなあ。仕方ないから古典落語の速記本なんかを読んだりしたんだけど、こういうのは字で読んでもあんまり面白くないんだよ。
 そんな中で角川文庫はSF作家のジュブナイルが充実していて重宝した。筒井康隆の「ミラーマンの時間」とか平井和正の「超革命的中学生集団」とか面白かったなあ。SF以外だと、これも角川文庫だけど小林信彦オヨヨ大統領シリーズなんか愛読した覚えがある。あとは新潮文庫で出てた井上ひさしの「ブンとフン」も印象に残っている。こうして見てみるとユーモア小説ばっかりだ。笑いは免疫力を高めるそうだから、こういうのばっかり読んでいたらよけい治りが早くなってしまう。限りなく仮病に近い身としては痛し痒しである。
 そんな事をしてたせいで俺はすっかり活字中毒になってしまった。高学年になると上記の作家の大人向け小説に手を出し始め、さらに中学に入ると東海林さだお椎名誠のユーモア・エッセイにまで守備範囲を広げた。なんだかとにかく笑える本ばっかり追い求めていたみたいだ。どうしてそうなったのか?
 これは私見だけど、俺が幼少期を過ごした80年代は日本中が躁状態になっていて、パロディ、ユーモア、お笑いが必要以上にもてはやされていた。軽薄短小の時代といわれ、ネクラな人はもの凄く嫌われた。テレビでは漫才ブームがまきおこり、活字の世界では赤川次郎を中心としたユーモア・ミステリーが飛ぶように売れた。そんな時代の空気が俺を笑いに駆り立てたのかもしれない。なぜか赤川次郎には手が出なかったけど。
 などと思い出話ばっかり語ってしまって、一向に文学論に入っていかない。困ったなあ。とりあえず日本のユーモア小説の歴史について大急ぎで書いておく。1960年に出版された北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」を分水嶺として、日本のユーモア小説はそれ以前とそれ以後に分かれる。冒頭で紹介した「なぜ笑いにこだわるか」というエッセイによると、「どくとるマンボウ」は「それまでの<伝統的な抑制したユーモア>と異質な笑いを日本にもたらした」とある。異質な笑いとはマーク・トウェイン風のほら話、言いかえると精神的なスラップスティックなのだそうだ。この作品の登場によって、それまでのユーモア小説はすべて古臭いものになってしまった。
 小林信彦によると「日本文学における<ユーモア>が抑制されたもの、というのは、ある種のイメージであり」そのイメージが形成されたのは「大正以降のこと」ではないかと書いている。その証拠に明治時代の「我輩は猫である」はユーモアが抑制されておらず、読めば読むほど面白くなる作品だという。ちなみに「吾輩は猫である」は、最初に誰でもわかる「捨てギャグ」を多用し、だんだん通好みのハイブロウなギャグを入れていく、という構成をとっているそうだ。いわれてみれば確かに小学生の頃は捨てギャグを多用している第一話は繰り返し読んでいたけど、それ以降の章にはなかなか入り込めなかった覚えがある。
 では大正以降の<抑制したユーモア>とはどういったものか。小林信彦は書いてないけど、その代表はなんといっても佐々木邦だろう。この人は日本にユーモア小説というジャンルを大成させた戦前の大家である。佐々木邦の「変人伝」という短編がここで読める。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/novel/sasakikuni.html
 もうまるっきり車寅次郎のインテリ版である。そもそも「男はつらいよ」の企画は、佐々木邦の「愚弟賢兄」をもじって「愚兄賢妹」をやろう、という発想が出発点なのだ。山田洋次のユーモア感覚のベースには佐々木邦があるのは間違いない。
 戦前の大家が佐々木邦なら、戦後にその系統を継いだのが源氏鶏太だろう。家庭小説の佐々木邦に対して源氏鶏太はサラリーマン小説である。この人は高度成長期までは松本清張と並ぶ大流行作家だったけど、いまや完全に忘れられた存在になってしまった。源氏鶏太がブレイクしたのは1951年の「三等重役」だから、ちょうど「どくとるマンボウ航海記」の十年前である。「三等重役」が東宝で映画化されると大ヒットを記録し、以後、社長シリーズをはじめとする同工異曲の東宝サラリーマン喜劇が量産された。wikipedia:源氏鶏太を見てみると、50年代は凄まじい量の作品が映画化されているけど、60年代に入るとそれがパッタリ止んでいる。やっぱり「どくとるマンボウ」の登場が影響しているのかも知れない。
 とはいえ小説の世界ではその後も存在感を維持し続けたようだ。俺が子供の頃は、どこの本屋に行っても源氏鶏太の文庫本が棚にズラーッと並んでいたものだ。ところが85年に彼が亡くなった途端、サーッと潮が引くように本屋から消えてしまった。俺がサラリーマン小説でも読んでみようかという年になったら、完全に入手困難な作家になっていた。諸行無常である。というわけで俺はあまり源氏鶏太を読んでいない。佐々木邦も同様である。しかしながら内容は大体分かる。佐々木邦源氏鶏太の小説は、東宝サラリーマン喜劇から「男はつらいよ」にいたる喜劇映画の保守本流のバックボーンになっている。あれらの映画からコメディアンの珍芸(変顔・奇声・奇妙な動き)を抜いたものがこの人たちの小説なんだろうな、きっと。
 「きっと」ってなんだよ。ぜんぜん語れてないじゃないか、ヒドいなあ。とにかくここまで来ちゃったらしょうがない。次回は北杜夫以降の日本のユーモア小説について書いてみるけど、大丈夫かな・・・・

定年なし、打つ手なし

定年なし、打つ手なし

追記:「定年なし、打つ手なし」は「<後期高齢者>の生活と意見」というタイトルで文庫化されているが、内容に大幅な編集がされていて「なぜ笑いにこだわるか」はカットされている。元編集者だったせいか、この人には妙な編集グセがあって、エッセイはもとより小説の短編集でも作品のカット・重複がはなはだしい。まことに収集家泣かせの作家である。

嘘にもほどがある

 掃除をしてたら部屋の隅にタバスコが転がっているのを発見した。ボトルに1/3ほど残っている。相当古いタバスコらしく、中の液体がドス黒く変色していた。「もうあきまへんで」という感じの凶悪なドス黒さである。俺は「まいったなあ・・・」と思いながらも、一応、キャップをあけて匂いをかいでみた。すると上等なウイスキーを思わせるいい匂いが漂ってくるではないか。「あれれ?」と思って一滴なめてみたら、これがうまいのなんの。酸味のカドがとれて、まろやかな味わいになっている。うまみ成分が凝縮した感じになっている。後味はナンプラーに似ている。こんな事があるのかと思って調べてみた。
http://gigazine.net/news/20130513-how-tabasco-sauce-is-made/
 これに書いてあるように、タバスコはもともと発酵調味料なのだ。普通のタバスコでも三年かけて熟成される。どうやらこのドス黒タバスコは、部屋の隅で放置されているうちにいい具合に発酵が進んで、スーパー・タバスコに進化してしまったようだ。俺はもともと夏に辛いものを食べるようにしているので、この夏はスーパー・タバスコを重宝しそうだ。しかし困ったことに、何でもかんでもタバスコをドバッとかけてしまうので、ドンドン減ってきているのだ。このペースだと、ひと夏も持たないかもしれない。なにしろこの世に二つとないタバスコである。大事に使いたいのは山々だけど、うまいのでついかけすぎてしまうのだ。これは大いなるジレンマである。
 という近況報告のあとは、まったく関係ない本文をお楽しみください。
 前回の記事では「最後に嘘をつく」という作劇のテクニックについて書いた。そしたら偶然にもまた「最後に嘘をつく」映画を見てしまった。これは神さまがこのテーマでもっと書けといっているに違いない。その問題の映画とは「問題のない私たち」である。2004年公開というから、いまから九年前の作品だ。九年前はちょうど沢尻エリカがブレイクし始めの時期らしく、ビデオパッケージには沢尻主演のように書いてあるけど、主役は黒川芽以である。最初はいじめっ子だった黒川が、転校してきた沢尻によっていじめられっ子になってしまう。原作は少女マンガで、現役の中学三年生がストーリーを担当したということで話題になっていた。
 いじめをテーマにした作品としては三年後の2007年に、これまた少女まんが原作の「ライフ」というドラマが作られた。こちらのほうは過激な描写で「問題のない私たち」以上に話題になっていた。「ライフ」は見たことないけど、往年の大映ドラマばりの無茶な展開を派手な演出で見せるらしい。パッケージも何やらアクション映画風である。「問題のない私たち」のほうは一応、リアリズムで進んでいく。
 冒頭のナレーションが秀逸だ。「これはいじめなんかじゃない。潮崎マリアが私たちに与える不快感への正当防衛だ」 いじめる側の論理を端的に、しかもキャッチーに表現している。こういうセリフは書けそうでなかなか書けない。「問題のない私たち」というタイトルも皮肉たっぷりでセンスがいい。このセンスの良さは原作者の手柄だろう。ところで俺はどちらかというと人に不快感を与える側である。だからこういう心情になったことはないけど、正当防衛の必要を感じるほど他人に不快感を覚えるのは思春期の少女としては珍しくないようだ。というのも、いま「1980アイコ十六歳」を読んでいて、これと似たような記述に出くわしたのだ。
 「1980アイコ十六歳」は当時現役高校生だった堀田あけみが書いた青春小説で、史上最年少の17歳で文藝賞を受賞したというので大ブームとなった作品である。タイトル通り1980年が舞台だから、いまからざっと三十三年前の話だ。主人公の三田アイコは同じ弓道部の紅子とそりが合わなくて悩んでいた。紅子は当時の流行語だったブリッコというやつで、男子の前と女子の前では態度が変わる性格である。たったそれだけのことがアイコには気に入らない。耐え難いほどの怒りがわいてきて自分でもどうしようもないのだ。おなじく紅子に反感を持つ友人たちと悪口で盛り上がるのが日課になっていて、そのときアイコが自分たちを正当化するために主張するのが「不快感への正当防衛」論である。そういう理論武装ができてしまうと、いじめまであと一歩だな、と思ってしまう。もっともアイコの場合は正当化理論をぶち上げた直後、そんなことを言う自分を醜いと思って落ち込むので、いじめには発展しない。でも、いじめ発生の原因が思春期のこういう心理状態にあるのは間違いないだろう。
 話を戻して「問題のない私たち」だ。この映画はオムニバスになっていて、いじめの話は前半の五十分で終わり、後半は別の話になる。そしてなぜか前半と後半の間に、美少女たちの水着プロモーション映像が五分ほど挿入されるのだ。どうしてそんな構成なのかというと、この映画は原作まんがを一ページずつ引き写したような脚本になっている。つまり、まんがをそのまま映像化したら自然と五十分で終わってしまうのだ。普通はそういう場合、内容を膨らませて九十分に引き伸ばす。ところが製作者はそんなことをせず、原作の第二部を後半に持ってきた。だから観客に気持ちをリセットしてもらうために水着プロモーション映像をはさんだのだろう。でも、さっきまでさんざんいがみ合っていた人たちが、急に仲良く水遊びしている映像を見せられたので少し戸惑った。しかしまあ、あくまでイメージ映像と解釈すればそんなに気にしなくていいだろう。
 後半は教師の万引きを目撃してしまった黒川芽以が、その教師から目の敵にされるという話だ。リアルな前半とは打って変わって、後半はサスペンスタッチで娯楽性を前面に押し出してくる。残り時間が少ないので演出もスピーディだ。そして後半の最後でこの映画は嘘をつく。前回の記事で書いた「愛と青春の旅だち」と違って、この嘘のつき方があまりよろしくないのだ。これ以上ないというぐらい泥沼だった状況が急に解決してしまい、あれほどいがみ合っていた二人が次のシーンでは仲良く談笑しているのだ。これはイメージ映像ではなく、ドラマの一部である。やっぱり、いくらなんでも急転直下すぎるだろう。ものには段取りというものがあるのだ。
 物語というものは多かれ少なかれご都合主義で進むものである。しかし観客にそれと悟られないようにするのが鉄則である。そのためのテクニックが伏線という奴だ。昔から、ご都合主義を隠すためには伏線を張るものと相場が決まっている。これは作劇の基本である。誰でも思い浮かぶのは、問題解決のヒントを実は前もって教えられていた、というパターンだ。それから「愛と青春の旅だち」で使われていたのは、一見、何の関係もないエピソードが登場人物の心情におおきな影響を与えてしまう、というパターンの伏線である。この手の伏線は観客に対して、登場人物の心変わりをなんとなく納得させる効果がある。これを心情的伏線と名づけよう。そして「問題のない私たち」で入れるべきだったのは、この心情的伏線である。泥沼の状況が一発逆転的に解決するのはまだ納得できる。納得できないのはいがみ合っていた両者が急に何事もなかったかのように仲良くなるという不自然さである。たとえ物語上必要なくても、観客の心理的抵抗を軽減させるためには、やはり心情的伏線が必要だと思う。
 そういえば、いがみ合っていた人たちが最後に急に仲良くなるという作品をもうひとつ知っている。1999年に放送された「無限のリヴァイアス」というアニメだ。これはゴールディングの「蝿の王」を宇宙SFに翻案したような物語で、のちに「コードギアス」を大ヒットさせる谷口悟朗の初監督作品である。最初のほうはアニメにありがちの、何の説明もなく専門用語をまくしたてる手法に戸惑うが、設定が出揃ってくる四話あたりから、がぜん面白くなる。そこから最終話の直前まで緊張感が持続していて、みごとな出来ばえなのだ。しかし最後がやっぱりご都合主義的なんだよなあ。理由は簡単だ。主人公の心情はくどいぐらいに描かれているんだけど、それ以外の登場人物の心情が分からないからだ。心情的伏線がないから、いくら一年が経過したからって、やっぱり唐突に感じてしまうのだ。あと数人でいいから心情的変化を感じさせるエピソードを入れておけば、ここまでご都合主義を感じることはなかっただろう。心情的変化といっても、べつにエピソードは何だっていい。それこそ子犬を拾わせるだけでもかまわない。とにかく「お、このキャラは変化したな」という雰囲気さえ出ればいいのだ。
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最後に嘘をつく

 ある日、唐突に、そういえば「愛と青春の旅だち」をまだ見てなかったことに気が付いた。ちょうどその時は図書館に本を返しに行く途中だったので、本を返してから図書館のDVDコーナーを何気なく覗いてみた。そしたらちゃんとあるではないか。これはどう考えても神様が俺に見ろと言っているのだろう。当然すみやかに件のDVDを借りてきた。
 「愛と青春の旅だち」は83年の正月映画として封切られた。その年の正月興行は、これと「E.T.」と「食人族」が三つ巴の熾烈な争いを展開したそうだ。言うまでもなく「E.T.」は当時の興収記録を塗り替えるメガ・ヒットとなった作品である。しかし「愛と青春の旅だち」のほうも「E.T.」にせまる大ヒットを記録した。そしてこれが成功したせいで、以後「愛とナントカのナニナニ」といった邦題がやたらと増えてしまったという、ある意味エポック・メーキングな作品である。もちろん大抵のレンタル・ビデオに置いてある。しかし俺は長年この作品を素通りしてきた。
 白状すると、こういういかにもOLが好んで見そうな映画が苦手である。愛とか青春とかを真面目に語られても、どうにも興味がわかないのだ。むしろそういったものを笑い飛ばすような作品が自分の感性にはフィットする。しかし、である。俺もおっさんと呼ばれる年齢に達し、脳の構造が徐々に変わってきた。トンガることに疲れを感じ始めてきた。いままで敵対していたOL的感性に対しても、かなり寛容になってきたわけだ。長年の食わず嫌いを克服してDVDに手を伸ばしたのも、そんな心境の変化が影響しているのだろう。
 見てみたら、なかなかよくできた作品で感心した。こりゃ人気が出るわけだ。特に目新しいことをしているわけではなく、当たり前のことを着実にこなしているタイプの映画である。スタッフとキャストがそれぞれのパートで、手を抜かずきっちり仕事をしている。いうなればハリウッド的職人仕事の集合体であり、まさに「開運!なんでも鑑定団」における中島誠之助の決めゼリフのような作品だった。
 シナリオ構成なんかも教科書的でガッチリしている。いちいち細かく説明するのは面倒なので、一点だけ、俺が特に感心したラストの処理について語ろう。このお話は基本的にリアリズムで進んでいくんだけど、最後の最後でファンタジーに転換する。普通ならハッピー・エンドになり得ない状況なのに、最後の最後で大逆転するのだ。この脚本が巧妙なのは、大逆転の前に最終試験と卒業式という二つのイベントを用意している点だ。この二つのイベントで描かれるのは、それまでのリアリティを壊さない程度の、ごく小さなファンタジーである。それが観客の心理的抵抗を緩和する役目を果たしている。ラストの大ファンタジーの前にささやかなファンタジーを二つ積み重ねることで「とって付けた感じ」を回避している。だから観客はなんとなくラストの絵空事に納得させられるのだ。いわばジャンプの前のホップ、ステップである。
 ネットで検索してみると、このラストを「出来すぎだ」として批判する向きがあるようだが、俺はそう思わない。大衆に奉仕する娯楽映画という観点から見れば、これはまったく正しいラストなのだ。この映画の性質からして、最期までリアリズムで押し通して完成度が上がるとは思えない。
 ところで俺はこのラストでファンタジーに転換する手法が鎌田敏夫方式と同じものだとスルドク気がついた。鎌田敏夫とは「金曜日の妻たちへ」や「男女7人夏物語」の脚本家である。
切通  鎌田さんは、昔インタビューで作劇術についてこう言ってるんだ。「最後に一個だけ嘘をつく」って。
これは96年に映画秘宝が出した「夕焼けTV番長」というムック本における切通理作の発言である。「最期に嘘をつく」という言葉はなかなか格言めいていて印象には残っていたけど、正直言って今までこの言葉を真面目に考えたことがなかった。ハッキリ言って鎌田ドラマを見てもピンと来なかったからだ。ところが何故か「愛と青春の旅だち」を見た途端、「ああ、そういう事だったのか」とストンと腑に落ちたのである。実に不思議な現象である。長生きはするもんですな。
 もちろんハリウッドが鎌田敏夫の作劇法に注目していたとは考えにくい。むしろこの「最期に嘘をつく」手法は昔ながらのハリウッドの伝統であり、そういう映画を見て育った鎌田敏夫がテクニックを取り入れたという順番だろう。昔はこういうウェルメイドな中規模作品がハリウッドでも盛んに作られていた。
 しかし、「愛と青春の旅だち」のような職人的仕事を駆使した中規模作品は、その後ハリウッド映画から駆逐されてしまう。きっかけになったのが「トップガン」だ。これは「愛と青春の旅だち」の道具立てを拝借したリメイクのような映画である。しかし表面上「愛と青春の旅だち」をなぞりながらも、それをスタイリッシュでゴージャスなアクション大作に転換させていた。この手口は悪名高きハリウッド・リメイクの手法じゃないか。そして「トップガン」で一躍名を上げたプロデューサーこそ、かの有名なジェリー・ブラッカイマーである。以後ハリウッドは大規模予算の娯楽映画かアート系の低予算映画に二極分化していく。
 なぜか日本でも似たような状況になっていて、テレビ局主導の大作映画とビデオ撮りの低予算映画に二極分化している。脚本に趣向を凝らしたウェルメイドな中規模映画は西川美和とか内田けんじとかが頑張っているけど、雨だれのようにポツリポツリとしか出てこない。でもねえ、俺みたいなおっさんが一番見たいのは、こういう中規模映画なんだよ。どうにかならないもんかね。
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妖異金瓶梅の配列

 近所の図書館に「妖異金瓶梅」が入ったので早速借りてきた。「妖異金瓶梅」とは中国四大奇書のひとつ「金瓶梅」をミステリーとして翻案した連作短編集だ。山田風太郎忍法帖でブレイクする前、探偵作家だった時代の代表作である。ここ数年、角川文庫で編纂されている山田風太郎ベストコレクションというシリーズの一冊で、半年ぐらい前に出たばかりの本だ。かつて扶桑社文庫から出た完全版と同じ内容になっているそうだ。
 何を隠そう俺は学生時代に山田風太郎研究会というサークルを主催していたほどの山田マニアである。当然「妖異金瓶梅」も昔の角川文庫版を持っている。十年前に未収録作品を補完した完全版が出たときも、早速その未収録部分を拾い読みした。しかし完全版を通して読んだことはまだないので、記憶もだいぶ薄れてることだし、今回図書館に入荷したのを機に再読してみようと思ったのだ。
 それで久しぶりに読んでみたらやっぱり面白かった。改めてこれは凄い小説だと思った。どう凄いかはググればいくらでも出てくるので俺は書かない。この記事で書きたいのは感想ではなく別のことだ。今回読んでみてどうも所々引っかかるところがあったのだ。もともと山田風太郎の連作短編というのは、毎回独立していて、しかもあとでつなぐと長編になる形式のものが多い。これを連鎖短編という。「妖異金瓶梅」もたしかに後半はそうなっているけど、前半部分は故意に連鎖を断ち切る感じの不自然な配列になっている。たとえば伏線が後のほうに来たり、妻妾の合計人数が合わなかったり。
 巻末の書誌を見ると、前半部分をまとめた最初の単行本からすでにこの配置だったようだ。まだ完結してない時点で出された最初の単行本は、それまで発表された作品を季節ごとに編集しなおしたもので、以降の版はすべてこの配列を踏襲している。しかし春夏秋冬で季節は一巡するものの、作品内では明らかに一年以上の時間が経過しているので、かえっておかしなことになっている。旧角川文庫版を読んだときも首をかしげた覚えがあるけど、作品が増えたためにより違和感が拡大してしまった感じだ。こうなったら作品集の最適な配列を見つけたくなるのが人情というもんだ。そこで俺は収録作品を発表順に並べなおして、作者の執筆意図を探りつつ、作品ごとのつながりを検証してみた。

「赤い靴」冬
 記念すべき第一作。西門慶の妻妾の数は八人からスタートする。この話は元宵節、つまり旧暦一月十五日前後の出来事である。冒頭に「見物にゆく主人夫妻や娘」という記述があるので、これは娘の西門大姐が都に嫁ぐ前の事件だろう。西門大姐は六月に輿入れして、二年後にまた実家に戻ってくる。次の事件の被害者である画童と琴童もちらっと登場する。

「美女と美童」冬
 前作で第七夫人の宋恵蓮と第八夫人の鳳素秋が死んだので、妻妾の数は現在六人。本作では西門慶の寵童である画童と琴童が被害者になる。不気味な占い師の劉婆がレギュラーになりそうでならなかった。俺は「麝香姫」で武松を目撃した王婆を彼女と混同していた。しかしよく考えると劉婆は盲目なので武松を目撃するのは不可能である。

「銭鬼」初夏
 妻妾の数は前作に引き続き六人だけど、途中から手代の妻で豚のように肥った揺琴が第七夫人に納まる。夏至の日から三度目の庚の日だから七月中旬の話である。琴童の羅刹事件が「この冬」の出来事という記述があるので、やはり「美女と美童」の次の話はこれだろう。前作の冬から夏に飛んでるけど、その間に第六夫人の李瓶児が妊娠している。

「変化牡丹」夏
 引き続き李瓶児が妊娠中の出来事。作中で西門慶と応伯爵が梁山泊の群盗の話をしているけど、あまり切迫感がない。この部分は明らかに次回作「閻魔天女」の伏線だろう。だから本作は「閻魔天女」より前の出来事である。前作で死んだ揺琴の後釜として第七夫人に納まったのが楊艶芳。かつて彼女のために三人の男が死に、二人の男が発狂したという魔性の女だ。どうせこいつも殺されるんだろうなあ、と思ったら案の定である。

閻魔天女」晩春
 娘の西門大姐が二年ぶりに夫を連れて帰ってくる。そして前作「変化牡丹」でちらっと話題にでた梁山泊の群盗が西門慶に深く関わってくる。新たに第七夫人となったのが娘の嫁ぎ先からついてきた侍女の朱香蘭。彼女はすばらしい声の持ち主である。本作までは第七夫人以下に納まった女性が殺されるというのが基本パターンだったけど、次からはそのパターンに変化が見られる。

「漆絵の美女」十月
 第六夫人の李瓶児がすでに死んでいる状態から話がスタートする。記述によると、子供を生んだのが去年の六月。その子が今年の八月末に死に、子供を追うようにして李瓶児も九月十七日にこの世を去る。七月中旬に妊娠中だった人が六月に子を生んだ事になっているのは作者のミスだろう。不動の第六夫人と思われていた李瓶児が死んでしまうのは原典の「金瓶梅」がそうなっているから。ここから作者の構想が揺らぎ始める。

「麝香姫」初秋
 さかのぼって李瓶児が死ぬ直前の出来事。話に棺桶がどうしても必要だったのでこうなったのだろう。当然「漆絵の美女」より前に配置しなくてはいけない。これまでちょくちょく話題になっていた西門慶お気に入りの娼妓、李桂姐が本作でようやく被害者になる。そして武松が町に帰ってくる。作者もそろそろ幕引きを考え始めたのだろう。ラストの台詞に見られるように、潘金蓮のキャラも微妙に変化している。

「妖瞳記」晩夏
 死んだ李瓶児の後釜として美しい瞳の劉麗華が登場する。半年ばかりまえ新しく第六夫人となったとあるので、西門家に来たのは春の初めごろと思われる。本作では小間使いの龐春梅がクローズアップされる。これも幕引きを意識してのことだろう。ちょうど単行本一冊くらいの分量になってきたから。しかし結末の構想が固まるのはもうしばらく後である。この短編が最初の単行本からもれたのは、おそらく季節ごとにまとめたとき浮いてしまうからだ。結果的にそれが幸いしたようだ。

「西門家の謝肉祭」春
 ここまで発表した時点で最初の単行本がまとめられた。妻妾五人という記述があるので、作者は前作の第六夫人劉麗華をあのまま退場させるつもりだったのだろう。しかし後述のように劉麗華は復活するので、本作を執筆順に配置すると「五人」という記述に矛盾が生じてしまう。この矛盾を解消するには先代第六夫人が死んだ「漆絵の美女」の直後に配置するしかない。ほかに妻妾が五人になる時期はないからである。

「人魚燈籠」夏
 この短編は「邪淫の烙印」のプロトタイプとなった作品だ。これを見るとやっぱり劉麗華は退場していて、その代わり新たに四人の美女が投入されている。どうして急に大量投入したかというと、幕引きのためにはこの人数が必要だったからだ。つまりこの時点で結末の構想がほぼ出来上がったと見て間違いない。しかし増え方があまりにも不自然すぎるせいか、初出以降はお蔵入りとなる。本作の設定は次の「邪淫の烙印」ではリセットされているけど、「おっそろしく肌のきれいな」憑金宝は次作に登場する。

「邪淫の烙印」冬
 ちょっと切支丹ものの味わいがある作品。ここで作者は新しく妾になった憑金宝のことを第七夫人と記述している。第七夫人がいるということは、第六夫人が存在するということだ。明らかに劉麗華を復活させる可能性を視野に入れている。作者はここでようやく、必ずしも死んでない人間を退場させる必要はない事に気がついたのだろう。だから本作の憑金宝もあえて殺さなかったのだ。もう少し早く気付いていれば「閻魔天女」の朱香蘭も再利用できたはずである。

「黒い乳房」初秋
 退場したはずの第六夫人劉麗華が復活する。作者がこの人を引っ張り出してきたのはトリックに盲人が必要だったからというのもあるけど、何より妾の頭数を揃える必要があったからだ。劉麗華が第六夫人とハッキリ書かれているのに、本作から登場した香楚雲と葛翠屏には序列が明記されていない。これは前作の第七夫人憑金宝を再登場させるためと思われる。だから本作の時点で妻妾の合計は九人ということになる。ちょうど「人魚燈籠」のときと同数だ。作中に「ひとりの男をめぐる七人の妻妾」という記述があるが、これは作者のミスだろう。

「凍る歓喜仏」晩秋
 本作からは妾の数が増えない。これから以下四作品にわたって残った妾を順番に片付けていく作業に入るのだ。まず「麝香姫」以来しばらく遠ざかっていた李桂姐が死ぬ。続いて「おっそろしく肌のきれいな」憑金宝もあえなくお陀仏となる。憑金宝が死んだあとは、前作「黒い乳房」で初登場した香楚雲が第七夫人に昇格したはずである。作中にそういう記述はないけど。

「女人大魔王」正月 「蓮華往生」早春 「死せる潘金蓮」初夏
 この三作は特に検証の必要はない。作者が悪戦苦闘しながら妾を増やしたおかげで、我々は見事なエンディングを読むことができる。残った妻妾はあと七人。第一夫人はお堅い呉月娘、第二夫人は豊満な李嬌児、第三夫人は小麦色の孟玉楼、第四夫人は夢遊病の孫雪娥、第五夫人は希代の妖婦潘金蓮、第六夫人は盲目の劉麗華、第七夫人は新参の香楚雲。

 今まで見てきた通り、この連作は執筆順に並べるとかなり前後の関連性を意識して書かれていることが分かる。だから「赤い靴」から「閻魔天女」までの五作品はやはり執筆順に配置するのが望ましい。「邪淫の烙印」以下の六作品は初版以来一貫して執筆順に配置されてるので問題ない。並べ替えたほうがいいのはその間の四作品だけである。そこで俺の考える正しい配列を以下に記す。
 1赤い靴 2美女と美童 3銭鬼 4変化牡丹 5閻魔天女 6麝香姫 7漆絵の美女 8西門家の謝肉祭 9妖瞳記 10邪淫の烙印 11黒い乳房 12凍る歓喜仏 13女人大魔王 14蓮華往生 15死せる潘金蓮
 もっとも、この配置にも若干の問題がなくはない。「黒い乳房」によると劉麗華が失明したのは「この夏」という記述がある。そうすると夏が舞台の「妖瞳記」と秋が舞台の「黒い乳房」の間に冬が舞台の「邪淫の烙印」が挟まるのはちょっと具合が悪い。しかし「邪淫の烙印」はこの二作の間から動かせないのだ。なぜなら「妖瞳記」以前に配置した場合、憑金宝は第六夫人になってないとおかしいし、「黒い乳房」以後だと香楚雲がいるので憑金宝の序列はその次の第八夫人にしなくてはいけないから。だから劉麗華の失明は「去年の夏」とすべきところをうっかり「この夏」と書き間違えてしまったのだ、と解釈するしかない。以上の点をふまえて計算すると「妖異金瓶梅」は全体でおよそ五年半の物語ということになる。原典の「金瓶梅」が冒頭から西門慶の死まで六年だから、まあそんなもんだろう。

突然変異手塚アニメ(2)

 手塚治虫がなくなったとき、「Comic Box」という雑誌が手塚の特集をして、各界の著名人からの追悼文を載せていた。宮崎駿も寄稿していたけど、その内容が後々まで語り草になるほど凄まじいものだった。実は俺もこの特集号をリアルタイムで購入して宮崎の追悼文に衝撃を受けた一人だ。宮崎は手塚アニメを見て「ぼくは背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました」と書いてるが、俺はそれを読んで同じような気持ちになったよ。宮崎の追悼文はここで全文読める。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20071013/atom01
 さて「アニメ作家としての手塚治虫」である。著者の津堅信之はアニメーション研究者で、京都精華大学マンガ学部准教授だそうだ。この本はおよそ二十年の時を経てようやく出た、上の追悼文に対する反論の書という感じだ。特にアニメの制作費問題、つまり「昭和三十八年に彼は、一本五十万円という安価で日本初のテレビアニメを始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に低いという弊害が生まれました」という発言に対する検証が本書の目玉だろう。ネットで調べても、もっぱら「アニメの制作費問題に斬りこんだ本」という評価のされ方だ。確かにその部分もすごく面白いんだけど、一番俺の興味を引いたのは別の箇所だ。杉井ギサブローが著者のインタビューに答えて、「鉄腕アトム」制作当時のことを振り返っている。
 日本初のTVアニメである「鉄腕アトム」は低予算で過密スケジュールのため、できるだけ絵を動かさない方針だった。そのため「紙芝居」と揶揄されたのは有名な話だ。東映動画を経て虫プロに入った杉井も、この動かないアニメを最初は馬鹿にしていたようだ。しかし出来上がった作品を見て杉井は考えを改めた。そのことは「アニメ師・杉井ギサブロー」でも語っていたけど、この本では「映像娯楽の新種」という印象的な言葉で表現している。杉井はこのときフルアニメーションを捨てたとまで言い切っている。
 では杉井がそれまで関わってきた東映動画と「鉄腕アトム」はどう違うのか。俺が一番興味を持った部分だ。それを調べるために、アトムの放送開始と同年に制作された「わんぱく王子の大蛇退治」を見てみた。演出のテンポやカット割りが古い日本映画そのままで、俺の知ってる日本アニメのリズムとまったく違っていた。本来ならここでワンシーン抜き出して説明したいのだが、ユーチューブに適当な動画がないので予告編で代用させてもらう。しかもリクエストにより埋め込み無効だ。
http://www.youtube.com/watch?v=FXMsSm3OuFw
 古い日本映画というのは例えば、引きの長回しでドラマが進んでいって感情が高ぶるポイントでポンと寄る。「わんぱく王子の大蛇退治」もまったくその呼吸で進んでいくのだ。アクションシーンでもカメラを固定させ、動きの全体像を捉える事に重点を置いている。上の本でやたらディズニーを引き合いに出してるからもう少しディズニー寄りかと思ったけど、これは完全に当時の日本映画の演出法だ。ディズニーの場合、引きのカットはシーンの最初に状況説明として用いられるだけで、後はバストアップの切り返しでドラマが進む。こっちはアメリカ映画の流儀である。ただ、「わんぱく王子の大蛇退治」のタケルと大蛇の対決を見ていると、宮崎駿がここから育っていったのがよく分かる。一方「鉄腕アトム」のほうはどうだろうか。

 絵が動かない代わりにカット割りを早くしている。構図も刻々と変化して、場面がどんどん次に進んでいく。さらにズームを多用して画面に変化をつける。東映動画の洗練に対して、こちらの画面は猥雑なエネルギーを放射している。そして展開が速い。まがりなりにも登場人物の感情の機微を追っていた東映動画やディズニーと違って、「鉄腕アトム」はとにかく素早い場面転換でどんどんストーリーを展開させていく。なにしろ始まってから一分でトビオが事故死して、五分でアトムが完成して、十分でサーカスに売られるのだ。
 「アニメ作家としての手塚治虫」を読んで意外だった点がもうひとつある。当時すでにアメリカのTVアニメが毎週五十本を越える数で放映されていて、それらがみんな動かないアニメだったということだ。これが本当なら「鉄腕アトム」だけが粗雑な紙芝居とはいえなくなる。ためしにユーチューブで「クマゴロー」の第一話を見てみた。

 アメリカのTVアニメってこんな感じだよなあ。シチュエーションコントの連続でストーリー性は皆無に等しいんだけど、問題はその演出だ。確かに動いてないし、たまに動いても中割りがないので動きがポンポン飛んでる。構図の変化もぜんぜんない。作り手がそういうもんだと割り切っている感じが伝わってくる。しかしカット割りのテンポはアメリカ映画の伝統的なリズムで心地よささえ覚える。完成された様式美にしたがってそこから一歩も踏み外さない感じだ。様式美だから動かないのがあまり気にならない。これはフォーマットの勝利だろう。ただしこのフォーマットでドラマは描けないよな。
 こうしてみると「鉄腕アトム」がいかに特異かが分かる。この特異さは当時の制作状況から苦し紛れに生まれたもので、手塚だってやりたくてやった訳ではないだろう。しかしこの偶然の産物から、世界でも類を見ない日本アニメの発展が始まったのだ。新しいものは制約の中から生まれる、という格言を地で行く出来事である。そして宮崎駿が手塚に反発した気持ちもよく分かる。宮崎の本質はアニメーターであり、動きを極めてアートにまで突き抜けてしまった稀有のクリエイターである。動かないアニメが世間にはびこるのは、彼にとって死活問題なのだ。
出発点―1979~1996  アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質  わんぱく王子の大蛇退治 [DVD]  鉄腕アトム Complete BOX 1 [DVD]

突然変異手塚アニメ

 ちょっと前に「アニメ師・杉井ギサブロー」というドキュメンタリー映画を見た。杉井ギサブローとは80年代にTVアニメ「タッチ」の演出で名を上げ、続いて劇場用アニメ「銀河鉄道の夜」を監督した人だ。俺の印象だと70年代の後半に出崎統が出てきて、次にりんたろうが出てきて、さらに富野・高橋の時代になって、それからようやく杉井が出てきたという感じだった。後年になって、上の面々はTVアニメの草創期から虫プロで活躍してた人たちだと知った。このドキュメンタリーで初めて知ったのだが、杉井の場合は途中で十年ほどブランクがあって「タッチ」で再び第一線に復帰したのだそうだ。
 映画の前半は本人および関係者インタビューによる杉井の半生、後半は杉井の新作「グスコーブドリの伝記」のメイキングである。中でも一番興味深かったのはやっぱり、虫プロでTVアニメを一から作り上げていった杉井の青春時代だ。後に巨匠になる若者たちが梁山泊さながらに集まってくる様子は話を聞くだけで楽しい。最近新書で出た「まんがトキワ荘物語」を髣髴とさせる面白さだ。

 映画ではインタビューの合間に杉井の担当した作品が断片的に挿入されていく。その中でも俺の目を引いたのが69年に手塚が製作した劇場用アニメ「千夜一夜物語」から始まる、通称アニメラマ三部作である。世界でも類を見ない、大人のためのエンターテイメントを狙ったアニメだそうだ。アニメラマ路線が続かなかったのは非常に残念だ、と杉井は語っていた。それらの映像がなんだか他とは違う異質な雰囲気を醸し出していた。「千夜一夜物語」で杉井が担当したのは、性交をイメージ的に処理した非常に実験的なアニメーションだ。単色の背景の中、絡み合う肉体が変容して次第にひとつの肉塊になっていき、最終的には線のうごめきだけでエロチシズムを表現している。正直言って「グスコーブドリ」より「千夜一夜物語」のほうに興味がわいた。
 それで「千夜一夜物語」を見てみたんだけど、いやー驚いた。メチャクチャ面白いじゃないか。開巻劈頭、主題歌「アルディンのテーマ」にのって主人公が砂漠を歩くシーンから画面に釘付けになった。巨匠冨田勲によるやたらかっこ良いサイケデリック・ロック。歌っているのは何とチャーリー・コーセイだ。歩いてるアニメーションなのに背景を動かさないから一ヶ所で足踏みしてるように見える。この不思議な演出は何だ。その後も実験アニメ的な手法が連続するんだけど、上滑りすることなく作品に溶け込んでいる。そしてきちんと娯楽作品として成立している。なにより画面から放射されるエネルギーが凄い。日本の劇場用アニメというのは作風で大別すると、TVアニメからの派生かスタジオジブリ的世界かのどちらかだと思うんだけど、この映画はどちらでもない突然変異的な作風である。杉井が残念がるのも分かる気がする。
 正直言って今まで俺はまんが家としての手塚治虫は大好きだけど、アニメ製作者としては完全に舐めていた。かつて宮崎駿は手塚アニメを「自分が義太夫を習っているからと、店子を集めてムリやり聞かせる長屋の大家の落語がありますけど、手塚さんのアニメーションはそれと同じものでした」と評していたけど、俺もまあそれに近い印象があった。もちろん「おんぼろフィルム」や「JUMPING」といった評価の高い短編も一応は見ていて、その出来ばえにはかなり感心した。しかし俺の手塚アニメ観を覆すまでには到らなかった。おそらく「火の鳥2772」を見たときの印象が後々まで尾を引いていたのだろう。この映画は大人になってからまともに鑑賞した最初の手塚アニメだった。
 オープニングはATG風の白地に黒活字の渋いタイトルクレジット。本編が始まって十五分ぐらいは台詞なしの実験的演出が続く。完全に大人向けの作りだけど、それが過ぎると急に対象年齢が低くなる。「火の鳥2772」は大人向けの実験的演出と若者向けのメカアクションと子供向けのギャグが混在した奇妙な作品だった。あまりにも統一感がなくてびっくりした覚えがある。まさに手術台の上でミシンとこうもり傘が出会ったような感じだが、それが美しくないのだ。特に子供向けのギャグが滑ってるのは痛かった。これで印象がかなり悪くなった。しかし「千夜一夜物語」を見た以上、考えを改めなきゃいかんなあ。
 思えばまんが家としての手塚が中年を過ぎてスランプになったのは子供を相手にすると滑るようになったからだろうし、70年代以降復活できたのは「空気の底」や「きりひと讃歌」で青年まんがのノウハウを身につけたからだろう。復活作の「ブラックジャック」は、ぶっちゃけ「空気の底」や「きりひと讃歌」の世界を少しマイルドにしただけともいえる。晩年になると「陽だまりの樹」や「アドルフに告ぐ」といった大人向け作品の完成度がもっぱら注目されていた。それなら手塚アニメだって子供に色目を使わなければ十分面白いはずだ。そういえば「火の鳥2772」でも一番面白かったのは大人向けの作りだった最初の十五分だ。だから徹頭徹尾大人を相手に作った「千夜一夜物語」が面白いのは当然である。ちなみに「千夜一夜物語」の制作時期は手塚が青年まんがに進出した頃と一致する。
 そこで手塚アニメについてもっと調べてみようと図書館に行ったら、そのものズバリ「アニメ作家としての手塚治虫」という本があるじゃないか。読んでみたらそこにはかつての宮崎による手塚批判を片っ端から覆す証言、文献、論考の目白押しである。長くなったのでいったん切るけど、次回はこの本について語ってみたい。
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獅子心王、尊厳王、失地王(4)

 前回は「ロビン・フッド」の時代を通り越して十字軍運動の顛末まで話が飛んでしまった。なぜ十字軍の話を始めたかというと「ロビン・フッド」を理解するのに必要だったからだ。しかしその顛末にまで話を広げる必要はなかった。調子に乗りすぎだね。今回は時計の針を100年巻き戻して、リチャード獅子心王が十字軍遠征を終えて戻ってくる所からはじめよう。
 ロビンフッドもののストーリーは昔から大体決まっていて、リチャードが遠征に赴いている間に弟のジョンが圧政を始め、ロビンはそれに反抗するというパターンだ。そしてラストは判で押したように、遠征していたリチャードが帰国してENDとなる。それまでこじれていた問題がリチャードの登場によって何となく解決したような雰囲気になって終わるわけだ。
 しかし現実は甘くない。史実では、遠征から帰ったリチャードはすぐにフランスへ渡って、今度はフィリップ二世と戦争を始めてしまう。「冬のライオン」にも出てきたフランス王フィリップだ。原因は遠征中にフィリップが弟ジョンをそそのかして反乱を起こさせたから。そして戦闘中に受けた傷が元であっけなく死んでしまう。何しろこの王様はおよそ十年の在位中、イングランドに滞在したのはわずか七ヶ月という人なのだ。獅子心王はまたの名を不在王ともいう。
 戦死したリチャードの後を継いだ弟ジョンはアホなのでフィリップ二世の策略にまんまとはまり、フランスに所有する領地の大半を失ってしまう。だからジョンは失地王と呼ばれている。反対に領地を大量獲得したフィリップは尊厳王と名付けられた。「冬のライオン」以来のフィリップの野望がようやく達成されたわけだ。これ以降のイングランド王はブリテン島に引きこもらざるをえなくなる。王様にイングランド人としての自覚が芽生えるための、これが第一段階といえる。ジョン失地王の体たらくに怒った諸侯は彼に詰めより、王の権力を制限したマグナ・カルタに調印させる。獅子心王の死からここまでが十五年である。
 リドリー・スコット版はどうかというと、リチャード獅子心王の死を十字軍遠征からの帰還途中の出来事というふうに改変して、それを冒頭にもってきている。イングランドへの一時帰国はなかった事にされているのだ。それから一年ぐらいで早々と諸侯の反乱が起き、マグナ・カルタが制定されてしまう。その直後にフィリップ尊厳王が挙兵して、クライマックスのイングランド侵攻になだれ込む。順番がおかしいだろ。この映画は歴史上のトピックをちりばめて史実にこだわったような顔をしているが、ここまで大胆に改変しているのだ。過去のロビンフッドのほうがよっぽど史実に矛盾なく話を収めているじゃないか。
 長いスパンの歴史の流れをギュッと圧縮して一年かそこらの物語に再構成する、というやり方は「キング・アーサー」そっくりだ。そしてこの映画でも、クライマックス直前にロビンが自由主義的演説をぶつ。しかし同じ自由主義でも「キング・アーサー」よりずっとラディカルな内容だ。ここでロビンは政府の干渉主義そのものを否定している。前半から重税に苦しめられる描写がしつこいから、もしやと思ってたが、この演説を聞いて納得した。ロビンが主張しているのはリバタリアニズム(自由原理主義)だ。NHKでやってた「ハーバード白熱教室」を見ていたから、すぐにピンと来たぜ。
 ハーバードのマイケル・サンデル教授によると、リバタリアニズムは個人の自由や所有権を含む権利を非常に重要と考える。だから国家がそれらを制限する事を認めていない。いわゆる最小限国家論である。そして課税による富の再分配も認めていない。なぜなら課税は個人の労働の成果を盗む行為だから。あれ? ロビンフッドといえばシャーウッドの森を通る金持ちから通行税を徴収するんじゃなかったっけ。今でも紛争地帯でゲリラが支配している地域は、バスの中にゲリラが入り込んできて通行税を取る。あれと一緒でしょ。しかもロビンの場合はそれを貧民にばら撒くわけだから、完全に再分配肯定の社会主義者だ。リドリー・スコットリバタリアンのくせにそんな義賊ロビンフッドを映画化しているわけだ。そうか、だからこの映画は義賊になる前で終わっているのか。
 このマグナ・カルタの皮を被ったリバタリアニズム思想を生んだのは、石工だったロビンの父親という事になっている。石工という事はここでフリーメーソンの存在がほのめかされている。恐らくロビンの父親を支援した北の諸侯たちはアングロ・サクソン系の豪族だ。豪族たちはノルマン人に服しながらも裏では秘密結社を通じて連帯していたという事か。この辺はまあ「ダ・ヴィンチ・コード」を意識したお遊びなんだろうな。そういえば戦前の「ロビンフッドの冒険」ではサクソン人とノルマン人の対立が前面に出ていたけど、リドリー・スコットはそういう人種対立をほとんど描かない。これは時代状況の変化が影響しているのかもしれない。いまや黒人がアメリカ大統領になるご時世だからね。いまさら人種問題でもないだろう。それよりも、外国勢力に内通するスパイの危険性を訴える内容になっている。
 確かにこの頃はフランス王に寝返るノルマン貴族が多かったのかもしれないけど、もともとフランス人なんだからそんなに卑劣な行為でもないと思う。少なくとも売国奴という感覚ではないだろう。フリーメーソンだって、例えこの頃すでにあったとしても、それはただの石工組合のはずである。この団体が政治的色彩を帯びて秘密結社化するのは、それこそ近代に入ってからだ。リバタリアニズムに到っては最新の政治思想である。時代劇でここまで歴史を改変するのは日本映画ではちょっと考えられない。でも、よく考えたら昔のアメリカ映画も出来るだけ史実に矛盾しないように作っていたはずだ。「ロビンフッドの冒険」はちゃんと史実の空白期間に収まるように話を作ってたし、50年代の「バイキング」だって自由主義者なんか一人も登場しない。こんなに歴史を改変するようになったのはここ十年ぐらいだと思う。きっかけになったのはメル・ギブソン監督・主演の「ブレイブハート」じゃないかと俺は睨んでいる。
 「ブレイブハート」に出てくるのはジョン失地王の孫エドワード一世だ。彼はじいちゃんが失ったフランス領地の損失補填をするために、スコットランド征服に乗り出す。しかしメル・ギブソン扮する英雄ウイリアム・ウォレスの頑強な抵抗にあい、上手くいかない。物議をかもしたのは後半の展開だ。エドワード一世は和議のために息子の嫁イザベラを使者としてウォレスのもとに行かせる。それによって事態は意外な方向へ向かう。だが史実によると、イザベラがイングランドに来たのはエドワード一世の死後なのだ。だから映画のように老王がイザベラを使者として遣わす事はありえない。この改変は従来の基準から言えばアウトだろう。しかし映画が大ヒットしてアカデミー賞を総なめにしたので、免罪符みたいになってしまった。こうして、その後の時代劇は歴史改変が当たり前になった、というのが俺の推理だ。そしてこの映画でもやっぱり主人公は「フリーダム」と叫んでいる。まあ良く言えば歴史映画の作劇法の新しいスタンダードになった作品なんだろうけど。
 皇太子時代のエドワード一世は一応、最後の十字軍を率いた事になっている。しかし「十字軍物語」では正式な遠征にカウントされていない。しかも塩野先生の評価は「十字軍を気取った」男だ。センセイ手厳しいね。たしかに彼は十字軍では何の成果もあげてない。でも王様になってからは国内を安定させたし、一時的とはいえスコットランド支配下においている。だからイングランドでは文武両道の名君と評価されてるようだ。
 ちなみに息子のエドワード二世はおそらく英国史上最低の、ジョン失地王に輪をかけたダメ君主である。そのダメっぷりはデレク・ジャーマン監督「エドワードII」でいかんなく描写されている。らしいんだけど俺はまだ見てない。解説を読むと前衛劇を美しい映像で撮った舞台中継のような映画らしい。監督はバリバリのアート系だからな。ただし原作はマーローの舞台劇なので、ストーリーはしっかりしているようだ。このエドワード二世がダメだったおかげでスコットランドは勢力を盛り返す。おまけにこの王様はゲイで、愛人を重用して国政を傾けてしまう。怒った奥さんによって幽閉され、最後は肛門に焼け火箸を突っ込まれて悶死するのだ。
 このエドワード二世とイザベラの子が百年戦争を始めたエドワード三世だ。彼は父親に似ず優秀な武将で、破竹の勢いでフランスに進軍する。メル・ギブソンはこの事実にニヤリとして欲しいのだろう。ともあれ、1066年のノルマン・コンクエストから1337年の百年戦争開戦まで270年。ここからようやくイングランド王はイングランド人になっていく。さて、四回も費やした「ロビン・フッド」の話がようやく終了するぞ。最後まで読んでくれた人は本当にお疲れ様でした。
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